目次
救済とは
救済とは不幸や病気、怪我、災害などで苦しんでいる人を助けることです。
仏教の救済
仏教での救済は苦しみに満ちた世界である地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天界の六道を含む全ての衆生の魂を、苦しみの無い世界である浄土に引き上げる事であり、多くの仏達がそれぞれの立場で衆生救済の活動をしています。
全ての仏が衆生救済の活動をしているのですが、その一部として有名な話を紹介致します。
目連尊者の救済
盂蘭盆業(うらぼんぎょう)によりますと釈迦の十大弟子の一人で神通第一と言われた目連が神通力で自分の亡き母を探していると餓鬼の世界に堕ちてしまってやせ細り苦しんでいる姿を見たので、母を救おうと食べ物を供養しても燃え盛る炎となって食べることが出来ませんでした。
釈迦にそのことを伝えると母は生前中に自らの利益にばかり走り、施すことをしなかったために今の餓鬼の世界に居ること、そして母を救うためには安居会と呼ばれる90日の修行が終わる7月15日の日に御馳走を準備して読経し、供養することを説きました。
目連は釈迦に言われた通りのことを実践したら餓鬼道に堕ちた母は苦しみの世界から救われることが出来たので、この供養の行事が盂蘭盆の起源であるとされ、お盆に施餓鬼をすることの始まりだそうです。
地蔵菩薩の救済
水子は不幸にして人間世界に生まれてくることが出来なかった子供で、何の罪もないのですが、ただ一つ「親を悲しませた」という罪だけで死後の世界の三途の川を渡ることが出来ずに、罪滅ぼしとして賽の河原で石塔を作り続けている子供の事です。
地蔵菩薩はこのような場にも救済の仏として現れて、子供を救い上げるのです。
宝蔵菩薩の救済
宝蔵菩薩は阿弥陀如来の前身と言われ、悟りを得て如来になるために48の願いを立てたと言われています。
宝蔵菩薩は四十八の願いを全て叶うまでは決して仏にならないという強い意思を持った菩薩で、その願いは全て衆生を救済するという願いなのです。
菩薩とは完全なる悟りを得た如来になるために修行している衆生のことですからまだ悟りを得ていませんが、如来に近づいている段階で、自らの修行はもちろんのこと、衆生済度の実践が必要になります。
やすらか庵の救済活動
やすらか庵では仏教の思想に基づく救済活動をしています。
私が御縁の繋がりで始めたことばかりであり、純粋に運営を支えて下さる信者さんが居りませんので、仏の救済のように損得勘定抜きという訳にはいきませんが、主に供養のことで悩み苦しんでいる方の救済活動をしています。
お手伝いをして頂ける方には法を説かせて頂き、相応の報酬もさせて頂きますので、お気軽にお声がけ下さいませ。
悩み苦しみからの解放
今の世の中、新型コロナや物価高、戦争や紛争による社会不安、経済低迷などの影響を受けて悩み苦しんでいる人がとても多く、ソーシャルディスタンスを取る習慣が定着してしまったので、人と人との距離が遠くなるばかりで、相談出来る人、真剣に考えてくれる人が見当たりません。
電話相談はさすがに時間が取れないので今は注視していますが、メールで人生相談出来ます。
どうぞ御利用下さいませ。
毘沙門天祈願
毘沙門天は私達人間の世界に非常に近い所で活躍して居られますし、私達と同じ家族の姿をとって居られますので、私達人間の苦しみをよく知っていて、仏法としての解決の仕方を説いて居られます。
毘沙門天信仰はとても役に立つ信仰であり、実践するための方法です。
毎日祈願を続けています。
不治の病を宣告された、生きる希望を無くした、目標を失ってしまった、人を信じることが出来ない、などの苦しみから解放された方がたくさん居られます。
毘沙門天様の仏像もまた随分と増えました。
無縁仏の救済
散骨には海と山の両方があり、海の散骨では船を操船し、船上で読経します。
森の散骨では倒木を片付け、道を整備し御神木の前で読経します。
弘法大師信仰
お大師様は真言宗の開祖であり、まさに衆生済度を今でも続けて居られる方であり、そのお手伝いをさせて頂けることは行者としての最大の喜びであります。
お大師様の由緒ある仏像が御縁あってどんどん増えています。
お焚き上げ供養
亡き人に届けて欲しいものがある、物に対する執着から離れたい、縁を切りたい物がある、動物に可哀そうなことをしたので供養して欲しい、写経に書いた願いを天に届けて欲しいなどの心の悩み苦しみから解放する手段方法として宗教儀礼であるお焚き上げ供養は実に役立っています。
悩み苦しみから解放された、心が軽くなったという方がたくさん居られます。
葬儀、法事
亡き人をあの世にお送りするのに僧侶は必要ですが、拝金主義の僧侶がとても多くて、それが嫌だから葬式はしない、僧侶を呼ばない家族葬、直葬にしたということをよく聞きます。
しかし亡き人に対して引導を渡すと言いまして、暗闇の世界の中を照らす法を説き、正しい方向に導いて差し上げることが是非とも必要であり、そのことを命がけ、全身全霊で行う僧侶が必要なのです。
亡き人に対して何をするのかと言えば、只導いて差し上げる事だけなのですが、御布施を貰うためにしているのでは中身が伴わないと感じます。
私でしたら亡くなった方にはすぐに枕元に行って枕経をあげて差し上げます。
人としての感覚が亡くなった死者であっても耳の感覚はまだ残っているから、そういう時にこそ法を説かないといけないのです。