三途の川とは

三途の川

「三途の川」とは「三本の道がある川」という意味で、死者の魂がこの世を離れてあの世に向かう途中に流れていると言われる大きな川のことです。

三途の川の起源は

我が国では法華経や仁王経と合わせて「護国三部経」と言われる四世紀頃に書かれた経典である「金光明経」には「この経、よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」とあり、地獄餓鬼畜生の三悪道のことを三途の川と言っていますが、中国で成立した経典『地蔵菩薩発心因縁十王経』(地蔵十王経)には死後の裁判官である十王信仰が説かれ、その中に出てくる「葬頭河」が三途の川だという事です。

三途の川の「三途」の語源は「三本の道」と言うことですが、一説には三本の道とは亡き人の生前の行いによって三通りあって

  • 善人…金銀七宝で作られた橋を渡る
  • 軽い罪人…山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡る
  • 重罪人…強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る

とされています。

善人は安全な橋を渡るので安心ですが、軽い罪人ですと浅瀬を足を濡らしながら渡る訳ですから場合によっては滑って流されてしまうかもしれませんので油断することが出来ません。

重罪人になりますと流れが速くて深い所を泳いで渡ることになり、向こう岸までたどり着くのが至難の業です。

三途の川の渡し賃

三途の川の渡し船のイラスト

平安時代の終わりになりますと念仏による浄土信仰の影響を受けて、橋を渡るという方法では無くて、渡し船に乗ると言われるようになりました。

六文銭の由来

今でも葬儀の時に使われめ死に装束は仏教徒としての死出の旅立ちの姿を表していますが、胸から下げる頭陀袋には「六文銭」と言われるお金が忍ばせてあります。

頭陀袋-死に装束

三途の川の渡し船の渡し賃が「六文」と決められていて、葬儀の時の棺桶に「六文銭」が入れられるようになったのです。

六文銭

六道のぞれぞれの入口に居る地蔵菩薩に一文ずつ渡すので六文必要であるとも言われ、昔からお墓の入口には必ずと言っていいほど六地蔵がお祀りされていました。

六地蔵

地蔵菩薩について詳しく…地蔵菩薩の役割と功徳、真言、信仰について

今の時代では六文銭などはありませんので、亡き人の胸元に掛けた頭陀袋には紙で印刷された六文銭が入れられるようになっています。

懸衣翁・奪衣婆とは

懸衣翁・奪衣婆のイラスト

三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がいて、六文銭を持たない人が来たら衣服をはぎ取って渡し賃にするそうです。

奪衣婆(だつえば)は別名を葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言い、三途の川で六文銭を持っていない死者から衣服をはぎ取る鬼です。

はぎ取られた衣服は懸衣翁(けんえおう)によって三途の川のほとりにある衣領樹という樹に掛けられて、死者の生前中の罪の重さによってしなることから、そのしなり具合によって死後の行き先が決まるとも言われています。

死者の生前中の行いの裁きは閻魔大王の元でも行われますが、たとえ何処であっても死者の生前中の行いは全て天からはお見通しということなのです。

三途の川の大きさ

三途の川はこの世の世界とあの世の世界の中間に流れる川で、この世の世界の岸のことを此岸(しがん)と言い、あの世の世界の岸のことを彼岸(ひがん)と言います。

此岸から彼岸までの距離は、果てしなく遠くて向こう岸は見えず、渡ってしまったら元に戻れないという決まりがあります。

人が亡くなって四十九日までの間を中陰(中有)と言ってあの世に渡っている途中だとされていますが、この中陰の間ずっと橋を渡り続けていて途中で一休みすると、どちらに歩いていたのか分からなくなるほど遠いので、一週間単位で様々な仏に案内してもらうというのが十三仏信仰なのです。

チベット密教の経典であるチベットの死者の書では、ほとんどの死者は四十九日までの間に次の生に生まれ変わるとされています。

三途の川の渡り方

三途の川の渡り方

三途の川に渡り方があるのでしたら、そして渡らずに済む方法があるのでしたら今の内に知っておいても損はしません。

三途の川を渡らなくて済む方法

三途の川を渡らずに済む方法とは

三途の川を渡ると言うことは輪廻転生の門をくぐっているということであり、次の生まれ変わりへの旅立ちでありますので、ここから抜け出すには仏教で言うところの悟りである解脱しかありません。

解脱とは輪廻転生の輪から解き放たれて脱することです。

歴史上の人物で悟りを得た人、三途の川を渡ることがなかった方は釈迦です。

釈迦如来とは-生涯と悟り、真言、御利益、特徴など

私達は生まれ変わり死に変わりの輪廻転生の輪から抜け出すことが出来ずに六道の世界を彷徨っているとされ、特に何も修行しなかった人は地獄や餓鬼、畜生などの低い世界に堕ちていくとされます。

しかし解脱と言っても簡単な事ではありません、釈迦にしても王様の身分を捨てて家族も捨て、難行苦行をしてようやくたどり着いた悟りであって、それも前世から果てしない修行を続けてきた結果なのです。

三途の川を安全に渡る方法

人頭杖のイラスト

死後の世界に行ってまだ右も左も分からない内から閻魔大王の裁判が始まると言われていますが、閻魔大王から「お前の罪は重いから深瀬を泳いで渡れ」と言われたらもう絶望的で、躊躇していたら後ろから突き落とされて、あっぷあっぷと流されて溺れてしまい、目が覚めたら地獄の世界、これではむご過ぎます。

良いことも悪いこともしているけれど仏法を熱心に学ぶことなく修行もしなかった人は間違いなく三途の川を渡ることになってしまいます。

どうせ渡るのであれば安全な方法で渡りたいもので、そのためにはやはり生前中の自らの行いの善悪で将来が決まってしまうのですから、今からでも遅くありません、善なる行いを積むべきです。

遊ぶ時間を少しだけでも構いませんから修行の時間にすること、そして仏教を学ぶことです。

それが三途の川を安全に渡る唯一の方法なのです。

今からでも遅くない

貧者の一灯

仏教では現実に気付くことが大切であるとされ、今自分が置かれている状況を正しく知ることにより、今何をするべきかが分かり、魂のレベルが向上して行くのです。

正しく知る

正しく知ること

今出来ることは正しく知ることです。

生まれ変わり死に変わりを繰り返しているとしたら、今人間として生きていることはとても貴重な事であり、何も気が付くことなく普通に生活していたら次の生まれ変わりは人間ではないかもしれないのです。

動物などに生まれ変わることがあつたとしたらもう仏法の修行など出来ませんので、下の世界をさまようばかりになってしまいます。

今生きているということと、死後の世界は確実に繋がっていて、しかも今の生き方が強く反映される仕組みになっているのです。

五戒を守る

五戒とは

三途の川を安全に渡ることと、次にまた人間として生まれてくることは同じ事であり、まずは仏道に根差した正しい生活を実践することです。

五戒とは仏教を実践する人が守る戒律の中でも、仏門に入った在家の人が性別を問わず守るべき五つの道徳のことです。

五戒は五つの戒から成り立ち、最も重要度の高い順から並びます。

  • 不殺生戒(ふせっしょうかい)…生き物を故意に殺してはならない
  • 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)…他人のものを盗んではいけない
  • 不邪婬戒(ふじゃいんかい)…不道徳な性行為を行ってはならない
  • 不妄語戒(ふもうごかい)…嘘をついてはいけない
  • 不飲酒戒(ふおんじゅかい)…酒類を飲んではならない

仏法に根差した正しい生活をすることは今の生き方のみならず、死後の世界にも必ず影響してきます。

修行する

仏法の修行は何か特別な物がある訳ですなく、普段の生活そのものです。

勤行を行うこと

毎日続けることとしては朝或いは朝晩の勤行です。

ご縁のある宗派の勤行を毎日続けてみて下さい、因みに真言宗の勤行の方法は

真言宗の勤行の仕方、お経、次第無料ダウンロード

を参照して下さい。

勤行の中には経典、そして真言が入っていて、唱えれば唱えるほど大宇宙の真理に近づけるようになっています。

写経を行うこと

写経とは経典を書き写すことで、釈迦の在世当時には紙に書き写す方法が無く、弟子に対して行われた説法はその場で頭の中に記憶され、その内容はまた次の人へと口伝えに伝えていったのですが、時代が下がって紙に書く方法が普及すると共に経典の編纂が始まり、更にその経典は書き写されることに依って世界中に広がっていったのです。

仏教の出家者にとって写経は、仏法を広めていくための重要な手段だったのです。

今の時代の写経は精神的な修行、願掛けなどの目的で行われますが、大切な修行であることに変わりありません。

あなたも始めてみませんか…写経「般若心経」A4用紙版の無料ダウンロード

十三仏に頼んでおく

十三仏は私達の死後の世界の案内役で、迷うことなく仏の世界に導いて下さるという有難い仏様なのです。

十三仏の功徳と効果、真言について

しかし十三仏に少しだけ頼んだからと言って簡単に仏の世界に連れて行ってくれる訳ではありません。

仏の世界はそう甘くは無いのです。

十三仏

十三仏の真言は死者の供養のために唱えますが、自らの功徳にもなります。

真言宗の勤行を行えば十三仏の真言が入っていますので、毎日行えばとても効果があります。

真言宗の勤行の仕方、お経、次第無料ダウンロード

勤行と言いますのは仏教の修行の第一歩であり、仏法を学ぶ第一歩でもあるのです。

しかも続けるということが大切であり、高僧大徳と言われるような立派なお方であっても毎日の勤行だけは欠かさずに続けるものなのです。