目次
畜生道とは
畜生道とは衆生が生まれ変わり死に変わりする輪廻転生の六道の内の一つで、鳥・獣・虫・魚などの全ての人間以外の動物のこと。
三悪趣(悪道)について
衆生が生まれ変わり死に変わりする六道は上下の階層的な世界になっていて、下から順に地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天界の六つの世界の内、下位の世界である地獄、餓鬼、畜生の三つの世界のことを三悪趣、または三悪道と言って、仏教では悪業の結果として行く世界なので、行かないようにするべき世界なのです。
仏教に於いて三毒と言われ、克服すべき最も大きな煩悩は「貪瞋痴」で、「貪」は貪りの心、「瞋」は怒りの心、「痴」は無智の心であって、それらの心は三悪趣に繋がっているのです。
- 「貪」は貪りの心…餓鬼界
- 「瞋」は怒りの心…地獄界
- 「痴」は無智の心…畜生界
動物は無智の者が堕ちると言われている世界で、仏法を学ぶ機会があっても学ぼうとせず、楽ばかり追いかけて遊び暮らしたら動物になると言われる所以です。
- 寝てばかりいたら牛になる
- 食べてばかりいたら豚になる
などのことが言われ、もちろん牛が寝てばかり、豚が食べてばかりいる訳ではありませんし、牛や豚にとっては迷惑なことかもしれません。
人を軽蔑する時に言う言葉
最近では「畜生」という言葉が差別的な言葉だとして使われなくなり、「動物」と呼ぶのが一般的です。
「畜生」が語源の「ちくしょー」「こんちくしょう」などの言い方は自分の悔しさを表すことばですが、相手に対する軽蔑の言葉でもあります。
動物の世界が人よりも低い世界にあるという理由と、動物が肉や乳として利用されたり、毛皮製品として、或いは労働力として人から使われる立場にあるからなのです。
「此畜生」(こんちくしょう)は人をののしり卑しめる語で、特に腹が立った時に言う言葉ですが、人に騙されたり邪魔されたりして思ったような結果にならなかった時に、騙したり邪魔した相手に対して、「畜生のような身分のくせに」という軽蔑するような言い方になるのです。
同じような理由で「餓鬼」が語源で人をののしる言葉として「くそ餓鬼」も言われているのです。
ある意味私達は動物たちの命の権限を握っている者として動物たちを自分達よりも下に見ているからなのですが、最近では動物の立場が昔と比べて随分変わってきました。
家の中では犬や猫が家族の一員として一緒に生活していますし、家族の構成要因が少なくなったことから、家族以上の役割をも果たしているのです。
名前が付いて家族として家の中に住み、愛嬌を振りまき、出かける時も一緒ですから、ある意味人間と対等の立場とも言えるのです。
動物が人よりも優秀な点としては、決して相手を裏切らないことで、人間同士は利害関係によって平気で相手を裏切りますが、動物は損得勘定をすることなく相手に接するので大切にされるのです。
無智とは
無智とはは智慧がないことですが、菩薩が仏になるための修行としての六波羅蜜でも最後に般若(智慧)無波羅蜜がありますので、智慧というものが如何に大切なものであるかが分かります。
六波羅蜜に於いても布施波羅蜜や持戒波羅蜜などの修行の実践が必要になることから、このような実践が出来るのは少なくとも人間界以上の存在であることが求められます。
動物では仏道の修行をしようと思っても、常に命の危険にさらされて、智慧の蓄積が望めないことから、魂を向上させることが大変に困難なことなのです。
食肉について
私達は牛や豚の肉や魚の切り身をスーパーで買ってきても罪の意識を持つ人は居ません。
パックに入った肉や魚の切り身には動物たちの死や苦しみの姿が見えないからです。
屠殺場と呼ばれる動物を解体する現場では最後の瞬間を察知した動物たちがわめき散らして、必死に逃げようとします。
仏教の戒律に必ず入っている「不殺生戒」は生き物を殺さないことであり、生き物の命を慈しむことでありますが、死ぬということが苦しみであり、生き物を殺す時に肉体的、精神的苦しみがあることから殺生を罪としているのです。
殺生には苦しみを伴うことを知りましょう。
私達は肉や魚を食べるということを、生きる糧として継承し続けてきたのですから、頂くのなら感謝の気持ちで、捨てないように、残さないように頂きましょう。
動物実験について
実験用のラットやマウスは薬や医学の発展のためにと今でも多くの命が犠牲になっています。
動物の命だから問題ない、再生するから問題ない、という理論なのですが、人間のエゴに利用されたのかもしれません。
動物製品について
私達の身の回りには意外と多くの動物製品が使われています。
毛皮のコート、マフラー、手袋、お財布、ハンドバッグなど、動物の毛皮や皮で作られた物はとても多く、毛皮のコートやマフラーなんてフワフワして肌触りが良く、高級感もあって、誰もが一度は欲しいと思うあこがれの品物です。
その他にはジャンパー、ズボン、帽子、ベルト、アクセサリー、ソファー、椅子、ハンドル、三味線や太鼓、象牙、印鑑、べっ甲、櫛など実に様々な動物製品が私達の身の回りに溢れていて、私達の生活を豊かにしてくれているのです。
これらの動物製品は食肉として使用された残りを製品化したものではなくて、製品にするために殺されることがほとんどですから、無益な殺生をやめるためには代替品を使ったりするように致しましょう。
人から頂いた物で使わずにしまってあるものや、よく考えてみたら使えなくなってしまったような場合には、お焚き上げ供養で天にお還しするのが最も良い供養法だと思います。
命を大切に
近年では家族の構成人数が減ったことにより、家の中で小型犬や猫などのペットを飼う人が増えてきました。
ペットは家族の一員
一昔前までは犬は番犬として泥棒避けになるからという理由で飼われていたので、大型犬でよく吠える犬が好まれて、外犬で立派な犬小屋完備でしたが、餌は家族が食べたご飯の残り物を鍋で焚いて鍋ごと犬小屋の前に置いたものでした。
ところが現代ではマンションの中で飼える小型犬が人気で、シャンプー、トリミングで身だしなみはいつも綺麗、食べ物は高級フードでおやつ付き、家族と一緒にソファーに座り、寝るのも一緒でまさに家族の一員なのです。
人間は裏切ることがありますが、ペットは決して裏切らない従順な生き物ですから、家族にとっての大切な癒しであり、家族からはとても大切にされ、場合によっては家族以上の存在にもなるのです。
ある意味こういった家庭にご縁のある動物たちはとても恵まれた存在なのです。
生まれ変わりがあるのなら、犬や猫になりたいと願う人もいるぐらいですから、物事の価値観は時代によって変わってくるものです。
人間は恵まれています
実際にペットを飼ってみて思うことは、如何に人間世界が恵まれているかということです。
あくまでも人がペットを飼う立場であり、ペットは飼われる立場なのです。
ペットが私達人間と比べて劣っている点は、寿命が短く、犬や猫でも人間と比べて約5分の1ですから、私達に比べて約5倍のスピードで時間が進んでいることになります。
ペットは自分の考えを相手に伝える言葉を持ちませんし、痛いとか苦しいなどの体の症状をうまく伝えることが出来ないので、病気に掛かっていても手遅れになってしまうことがあります。
ペットは仏法を聞くことはもちろんのこと、修行することも出来ないので、魂の向上が望めません。
それでも大切に飼われているペットは幸せ者ですが、それ以上に人として生まれたことを感謝しましょう。
私達は他の命を慈しみ、智慧を得るための修行を重ねましょう。