極楽浄土とは
極楽浄土とはサンスクリット語でスカーヴァティー(sukhāvatī)と言い、阿弥陀如来の住む処で、苦しみが無く楽のみがある場所のこと。
極楽浄土の由来
私達の生まれ変わり死に変わりの六道輪廻の世界は「苦しみ」に満ちた世界であり、終わることの無い苦しみを繰り返すだけの世界なので、この苦しみから抜け出して安楽の世界を目指すには菩薩になってさらに長い修行を続けて如来になる、つまり悟りを得て解脱するしかありません。
如来の住む浄土では最上の楽しかありませんので極楽と言い、苦しみが存在しない世界なのです。
また浄土では何もかもが清浄なもので出来ていて、不浄の無い世界です。
「最上の楽」しか存在しない世界、「不浄の無い世界」ということで「極楽浄土」と言うのです。
仏説阿弥陀経
浄土宗や浄土真宗で根本経典となっている「浄土三部経」は「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」の三つの経典のことですが、その中でも「仏説阿弥陀経」には極楽浄土についての様相が詳しく説かれています。
「仏説阿弥陀経」は釈迦が弟子の質問に答える形式ではなくて自ら説くような形になっています。
「仏説阿弥陀経」によると、この世界から西方十万憶の仏国土を過ぎたところに阿弥陀如来の居られる仏国土の「極楽」があって、そこで阿弥陀如来が法を説いているとされます。
極楽については次のように説かれています。
七宝からなる池があって、その中には八功徳水によって、湛えられています。その底には、一面黄金の砂が敷きつめられていま す。そして四方には、階段がたてられ、(その階段は)金・銀・瑠璃・水晶の四宝によって組みあわされています。それを昇りつめると高殿がそびえ、金・銀・ 瑠璃・水晶・宝石・赤真珠・瑪瑙の七宝によって、美しく飾られています。
そしてこの国には絶えず美しい音楽が流れ、何種類もの色とりどりの珍鳥が生息して昼夜にそれぞれ三度ずつ、やさしく美しく啼き、そよ風が、さまざまな宝でできた樹木や飾り具を吹 き動かすたびに、美しい音色をたてています。
天界と浄土の違い
天界と浄土は似たような世界なのですが、大きな違いがあります。
天界について
天界は輪廻転生する六道の最高位であり、天国や浄土に近い世界で、楽を享受できる世界です。
七珍万宝が満ちていて宝石で飾られた宮殿があり、あらゆる楽を享受出来るのですが、必ず寿命があり、この世界から去る時が来て、その時には年寄りの相が出てきて何もかもがしぼんでしまいます。
そして楽を受けてばかりいますとやがて寿命が尽きた時に低い世界に転生することになってしまうのです。
「寿命があること」と「低い世界に転生するかもしれない事」が天界の特徴です。
しかし毘沙門天のように特別な使命を持った天は民衆の救済という既定の使命を持っているために堕ちるようなことがありません。
浄土について
浄土は周りの全てが美しく清らかな世界であり、一度行ったら堕ちることがありません。
楽ばかりの世界はいずれ飽きてしまいそうですが、常に法を聞いて諸仏を供養し、民衆を救うという役割があるので、飽きるような世界ではありません。
浄土の行き方
極楽浄土にはどのようにすれば行けるのでしょうか。
悟りを開く
釈迦は悟りを開いて釈迦如来になりましたので、もう輪廻転生することの無い如来の世界に到達した訳で、我々の住む世界には決して戻ってくることはありません。
釈迦如来の次に私達の世界に降りてくるのは弥勒菩薩だと言われていますが、56億7千万年後だそうで、気の遠くなる程遠い将来ですが、その間は地蔵菩薩が守ってくれているそうです。
実在の人物である釈迦は簡単に仏になれた訳ではありません。
現世に於いても生きるか死ぬかの極限まで追い詰める修行をして仏になったのですが、実は過去世に於いて様々な姿に身を変えて無限ともいえるほどの修行を繰り返していたのですから、実に類まれなる人物だったということなのです。
悟りを開くことは簡単なことではありませんが、浄土に行くための方法なのです。
阿弥陀如来にすがる
「仏説無量寿経」には阿弥陀如来がまだ菩薩だった時に立てた48の請願があって、これらの請願を成就させたからこそ如来になったと言われています。
48請願の第十八願は題名を「念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願」と言います。
「第十八念仏往生の願」には「私が仏になる時、全ての人々が心から信じて、私の国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることが出来ないようなら、私は決して悟りを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」とあり、阿弥陀如来が悟りを開いている以上、全ての人がもう既に救われていると説いているのです。
つまりここから法然や親鸞の浄土教が花開いて行ったのです。
難しい修行は出来ない、難解な教理は理解できない凡人にとって救われてる方法が無いと分かった時に「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで浄土に行けると聞いたらそれだけで救われるのです。
「南無阿弥陀仏」とただ阿弥陀如来にすがるだけしか私達は出来ないものです。
そういう意味では分かりやすいからこそ、多くの民衆が熱狂的に信仰したのです。