死苦とは
死苦とは釈迦の説く人間としての苦しみである四苦八苦の一つで、死ぬ時の苦しみ或いは死ぬのではないかという苦しみのこと。
死ぬということ
私達は生まれたら必ず死ぬという運命を背負っていますが、死ぬということを真面目に考える人は中々居ないのは、考える必要の無い事ですし、考えてもどうにもならないことだからではないでしょうか。
死ぬことを考える時間があるのなら、楽しく生きることを考えた方が有意義であるに決まっているのです。
釈迦のように人生が苦しみだという理由で王位も名誉も財産も家族も捨てて出家するような人はごく限られた人であり、悟りが確実に見えていたからこそ出来たことであって、私達のように俗世間の凡人はどうやって人生を楽しく過ごそうかという事ばかりを考えているのが現実なのです。
何も考えずにのんびりと暮らしている人であっても、たとえば余命三か月の末期癌を宣告されたとしたら、死の現実が目の前に迫ってきた時に初めて死が怖いと思うようになり、あまりの恐怖で発狂するような人も居るのですから、気の弱い人に対しての宣告は家族の同意が必要になってくるのです。
死の苦しみ
末期がんでの苦しみは断末魔の苦しみと言われ、腹部に水が溜まり、体の細胞が崩壊して皮膚が変色して悪臭を発するようになり、痛み止めが効かなくなってもまだ苦しみ続ける訳ですから、そんな状況でも手当の方法が無く、あとは死ぬのを待つだけとなってしまい、本人の口から早く死なせてくれと言われてしまえば、いっそのこと安楽死の方が早く楽になるのではないかと思うのです。
それほど死ぬということは苦しいのです。
警察からの連絡で交通事故に遭った家族に会うために病院へ駆けつけた時にはもう既に心肺停止状態で、事故の傷跡で惨いことになっていたとしたら、本人にとってはさぞや苦しかっただろうと思えば涙が止まりません。
事故で亡くなるということには多大なる苦しみが伴います。
夜におやすみと言って布団に入った家族が朝になって起きないので起こしに行ったら息絶えていたというような楽な死に方が出来る人は羨ましい限りですが、実はそのような死に方をする人は本当に少ないのです。
死苦と仏教
仏教では苦しみの中での最大の苦しみは死であると説きます。
人は誰しもまだ生きたい、もっと生きたいという潜在的な強い欲望があるからで、生きるという欲望の衝動は誰にも止めることが出来ません。
まだ生きたい、もっと生きたいのに死ななければいけないことは最大の精神的な苦しみであり、実際に死ぬ時には肉体の苦しみもあるのですから、精神と肉体の両方で苦しむ死は最大の苦しみなのです。
仏教では苦しみから逃れる方法として解脱することを説きますが、誰でもできる簡単な方法ではありません。
釈迦の入滅後から現在までに多くの人々が解脱の道を目指しましたが、釈迦の後に続く如来が現れないことからも解脱の道は遠いことが分かりますが、釈迦と同じ方法ではなくても苦しみから逃れたい、楽の世界に行ってみたいという衆生の要求に応えるべく、ただひたすらに南無阿弥陀仏の念仏を唱える念仏が浄土教として広く受け入れられたのは、いい加減な生き方をしていた人達が死んだ時に三悪趣のような悪い世界に堕ちてしまうのではないかという不安があるからなのです。
死後の世界
私達にとって死が怖いというのは、死後の世界がどうなっているか分からないことにもよります。
もし真っ暗闇の世界に堕ちていくのであれば最大の恐怖です。
生前中の行いによって死後の世界の行き先が決まるのであれば、大抵の人は善行よりも悪行の方が多いでしょうし、普通に生きていただけでも死後の世界の行き先が決まってしまうようなものですから、今死んでしまってはとても困るので、もう少し先延ばししてもらいたいのです。
仏教で常に正しい行いをしなさいと説くのは、何時死が訪れたにしても困らないようにしなさいよ、ということなのです。
死は必ず来て今生の最後になり、もう二度と人間の世界に戻ることが出来ないかもしれないので、今を正しく行きなさいと説いているのです。
私達が生きているのは毎日が修行のようなもので、魂を磨いていけば神仏の世界や
死後の世界の事もだんだんと分かってきますので、死というものを正しく受け止めることが出来るようになるのです。
死は魂にとって、只の通過地点に過ぎないのです。
その真実の姿が見えてくれば死が苦しみでなくなるかもしれません。