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当病平癒とは
当病平癒とは今掛かっている病気が治ること、もしくは治りますようにと願うこと。
病気の苦しみ
病気の苦しみは病気になった者しか分からないもので、苦しみの中でも最大のものとして「痛み」がありますが、特に末期癌での苦しみは想像を絶する苦しみとなり、治療と言っても苦しみの緩和しかありませんが、それもだんだん効かなくなってしまい、苦しみを終わらせるためには死しか無いことから「早く死なせてくれ」と懇願されますと、家族の者も辛い思いをすることになります。
そもそも病気というものは体の中で何かの異常が起こった時に、それを治そうとして戦っている細胞がダメージを受けた結果として痛みや発熱などの身体の症状になっている当然の反応であり正常な姿ですから、実は私達の普段の生活の不摂生などが原因であることが多く、病気の原因を取り除かないといけないという本質的な問題にアプローチするためには西洋医学よりも東洋医学の方が向いているのです。
病気の原因
世の中の現象には原因と結果があって、私達の病気にも適用され、たとえば寒い時に薄着をしていたから風邪を引いたとか、お酒を飲み過ぎて胃を壊したなどは明らかに原因と結果があるのです。
しかし大半の病気に関して原因と結果があるような中で、何処の病院に行っても何の病気が分からない、症状が出た原因すら分からないという事はよくあることで、検査の結果は正常値でしたという報告を受けて安心したら、何時の間にかに治っていたということも実際にあるのです。
或いは末期がんということが分かって手の打ちようが無いということを「医者が匙を投げる」と昔から言うのですが、せめて最後に自宅で最期の時間を家族と過ごして下さいというのが医者として患者に対する最後の配慮なのです。
まずは病院に行くこと
病院に行くのが嫌いな人が痛みを我慢し続けて、もうどうにも耐え切れないからと受診してみたらもう手遅れだと言われた。
自分の人生は自分で責任を持つという意味では、病院に行かないことも自分流の考え方で誰からも否定されることではありませんが、病院に行って治る病気でしたら病院は利用すべきです。
平安時代の弘法大師の時代は庶民が気軽に利用出来るような満足な医療が無かったので、病気になっても民間療法や民間人の怪しげな医者、祈祷師の祈祷などに頼るしか方法がありませんでしたから、今の時代では簡単に直すことが出来るような病気でも多くの人がバタバタと死んでいく、そういう時代だったことを思えば、今の時代の何と幸せなこと。
病院に行って早く治るのであればすぐに行くべきで、何でも神様にお願いしてはいけません、神様も忙しいのですから、まずは自分で日頃からの健康に気を付けながら、出来る事なら健康であることに神に日々感謝できるようにしておけば、病気になった時には頼まなくても神様が助けて下さるのです。
治らない病気
問題は現代の医学でも治らない病気です。
天寿が来ているのにまだ寿命を延ばしてくれ、散々不摂生をしておきながら今すぐに治してくれなど、無理なことを言っても神様も聞いてはくれませんが、原因不明の病気や病院に通い続けても治らない病気になったら、生きる希望さえも失ってしまい、溺れる者は藁をも掴む思いで「神様仏様御先祖様、どなたでも結構ですから助けて下さい」と願わざるを得ないのです。
医者から治らないと言われたら最後に思いつくのが神頼みで、医者がダメなら神様なら何とかしてくれるという単純な発想で行きつく所は「ガン封じ」「病気平癒」の御祈祷で有名な神社や寺院なのです。
やすらか庵のお焚き上げ供養に全国から送られてくる焚き上げ品の御札には、病気平癒の特別祈願をしてもらった御札も多数含まれていますが、治ったのであれば祈願してもらった寺社にお礼参りに行くべきですが、願いが叶わなかった時にはお返しに行きにくいもので、そうした御札が多数送られてきますので、世の中には実際には叶わないこともたくさんあるということなのです。
毘沙門天と当病平癒
毘沙門天は妃の吉祥天と子の善膩師童子を伴って家族の姿の神ですが、無理な願いを頼もうとしたら必ず叱られます。
毘沙門天の怒りの表情には私達の欲望に満ちた自己満足の願望を正して、他の幸せを思う願いに変えなさいという思いが込められているのです。
しかし病気になった人とその家族からすれば一刻も早く治って欲しいと願うもので、苦しんでいる人を見たら早くその苦しみを取り除いてあげたいと思うのが人情なのです。
神仏の祈願というものは、それだけで病気が治る訳ではありません。
医者の治療と良い薬、手厚い看護に心のこもった付き添い、そして神仏と先祖の加護があって初めて治るための材料が揃うのです。
世間では手に薬壺を持った薬師如来が最も病気平癒で有名な仏であり、私達の心と体の病気を治すことで仏の世界へ導く役割をされておられるのですが、如来という立場上悟りを説いておられ、瑠璃光浄土という高い場所からの救済ですから、私達の俗世間の願いを何でも持ち込む訳にはいきません。
その点毘沙門天は私達人間世界のすぐ傍にある天の世界に居られて尚且つ家族の姿をして居られますので、より身近な存在であり、俗世間の願い事であっても対応して下さるのです。
信仰の力
皆さんに信仰するということの大切さを知って頂きたいための祈願は、
5百円で一日祈願、御札も送付の毘沙門天祈願
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頼むだけではなくて、自分も祈ることが大切なのです。
自分が祈る気持ちが神様に通じることで初めて加護を得て、治るという力につながるのです。
病気になった本人が「気」を得ることで体の中の細胞が力を得て活発になり、ウイルスや悪い細胞と戦うことによって治っていくのです。
本人が絶対に負けない、戦うという気持ちにならなければ治ることはありません。
「もうどうでもいい」「もう諦めた」という気持ちになった人は神仏であっても救うことは出来ません。
勝つか負けるかについては毘沙門天は勝負必勝の神であり、絶対に負けないという力を与えて下さいます。
私達の体の中では小さな細胞の一つ一つが必死の思いで戦ってくれているのですから、どれだけ「気」を得ることが出来るかが勝負の分かれ目になるのです。
諦めないこと
「思い」というものは「実際の形になる」というのがこの世に於ける大原則で、たとえば絶対に治るという気持ちを持ち続ければ本当に治ることもありますし、もう駄目だと諦めた人よりも遥かに長く生きるのです。
打たれ弱い人は何かくじけるようなことがあればすぐに落ち込んでしまい、落ち込んだ結果として益々状況が悪化するという悪循環を繰り返すのです。
泣いてばかりいる人も状況が悪くなるばかりですし、悪い結果を人や物のせいにする人も救いようがありません。
何があっても絶対に諦めないこと、そして落ち込んだにしてもすぐに立ち上がることが大切です。
病気はある意味自分自身が試されているのであって、病気に対してどのように対処するかを天から試されているのですから、有難いと受け止める人も居ればもう駄目だと諦める人も居て、その捉え方によって進む道が違ってくるのです。
感謝すること
自分の運命を恨んだり、周囲の人に文句を言ったり怒り散らしたりしても病気は治りません。
多くの人の支えがあって生きていけるのであり、献身的に尽くしてくれる人に対して感謝の気持ちを表現し「ありがとう」の言葉を掛けることで雰囲気が和らぎ、新しい流れが出来てくるはずです。
「ありがとう」はたくさん言えば言うほど不思議な力を発揮する仏教用語であり、魂さえ籠って来る言霊でもあるのです。
笑うこと
「笑う門には福来る」
何があっても笑っている、七福神は笑いながら皆に幸せを届けていて、七福神の宝船の船頭としての毘沙門天は笑うことで幸せになると説いて廻っているのです。
正月早々家族揃って福笑い、皆が笑えば幸せな一年になるのです。
笑いは病気を治す特効薬で、血液を綺麗にしホルモンの分泌を活性化し、気の流れを良くする魔法の薬なのです。
不治の病を患った人にとって、普通の治療がダメならと、高価で手に入りにくいような薬や治療法に手を出したがりますが、笑うことにお金は要りません。
とにかく腹の底から笑うのです。
楽しいことが無いから笑えないと言えばそれでおしまい、楽しいことは自分で作り出すものです。
私達の周りにあるものは何でも楽しい事であり、嬉しい事であり、自分のために尽くしてくれる人に対して「あなたが有難い後光の射した仏様に見える」なんて言えば「あらま冗談でしょう、わっはっは」と、いくらでも笑いの材料はあるのです。