不邪淫戒とは

不邪淫戒について

不邪淫戒とは男女間の淫らな行いを禁止する戒です。世界のほとんどの宗教で禁じられている邪淫は何故いけないことでしょうか、仏教的に解説いたします。

仏教では在家の人が守るべき五戒の中でも男女間の行いに関する戒律です。

邪淫について

結婚して家庭を持つようになりますと夫婦の関係がとても現実的になり、少々の嫌な事があったにしても子供のためには別れる訳にはいかないと我慢し続けることが多く、家庭を持つということは我慢の連続だと悟るようになってくるものです。

結婚した時にはもうこの人しか居ないと思ったほど熱中した相手でも、時間の経過と共に冷めていくのが現実であり、お互いに今までには見えなかった悪い部分がいろいろと見えてくるようにもなるのです。

夫婦喧嘩をしたり仕事のストレスで悩んでいる時に相談した相手に惹かれてしまい、そういう相手が自分の配偶者が持っていない優れた面を持っていたり、自分のことを親身によく理解してくれるからと、駆け落ちしたり心中したりの話は昔からいくらでもあるのです。

私達が生まれながらに誰もが持っていると言われる肉体に関する欲望として食欲、性欲、睡眠欲があり、どれもが生きていくのに必要な欲望とされ、この中でも食欲と睡眠欲は不足の状態が続きますと命の存続に関わりますが、性欲はたとえ満たされなくとも死ぬようなことはありません。

しかしながらこの欲望があるからこそ私達人類が如何なる困難な時代にあっても絶えることなく続いてきた訳で、人類の存続と言う意味においてはとても重要な欲望なのです。

邪淫とは男女間の淫らな行いの事で姦淫とも言い、問題となるのは不倫などの道徳に反する行いであり、場合によっては欲望そのものを否定する考えもあります。

宗教と欲望

宗教と欲望

キリスト教ではモーセの十戒にもあるように姦淫することを禁止しており、ユダヤ教やイスラム教も同様に姦淫を禁じていますが、多くの宗教でも禁じられている姦淫は既婚者が配偶者以外の者と交わりを持つことであり、未婚者が既婚者と交わりを持つことも含まれます。

イスラム教では結婚した女性はベールを被って人から見られないようにし、家族以外の男とは話をしないなど、特に厳密に守られています。

仏教では不邪淫戒として禁じられている姦淫が、世界中の宗教で禁じられている理由は

  • 欲望に溺れてしまう
  • 正しい判断が出来なくなる
  • 正しい生活が出来なくなる
  • 他人の家庭を壊してしまう
  • 嘘をつくようになる
  • 魂のレベルが下がる
  • 地獄に堕ちる
  • 餓鬼道などの低い世界に堕ちる

などで、お互いの関係を続けていくために嘘をつき続ける、相手の家庭を壊すようなことで罪が大きくなっていくという特徴があります。

仏教と欲望

釈迦の説法-イラスト

仏教では欲望は悟りに対しての障礙となるので、捨て去るべきものとされますが、そう簡単には捨て去ることが出来ないのが欲望であって、密教では人間は本来欲望を生まれ持っているのであって、その欲望の一つ一つが清浄なものとされ、菩薩になり得るとし、ありのままの姿で仏に成る即身成仏を目指しているのは、欲望の真の姿を正しく観ることによって、たとえ欲望をまとった身体であっても仏に成ることが出来るということを説いているのです。

どの宗教でも禁じられている姦淫は、ひっくり返せば一番守りにくいからであり、有名芸能人が失敗して何もかも失くしてしまう姿が繰り返しニュースで流れても次々と別の人が同じ過ちを繰り返してしまうのです。

僧侶にしても本来は出家とは結婚せずに僧の集団に入るのが本来の姿なのですが、我が国では肉食、妻帯が認められているのですから、ある意味俗人よりも煩悩にまみれた僧侶が居るのも事実です。

尽きることの無い欲望に只流されるのではなくて、その正体を正しく観なさいよ、というのが宗教であり仏教なのです。

不邪淫戒が守れない理由

不邪淫戒が守れない理由としては

  • 職場や家庭内のストレス
  • 家庭がうまくいっていない
  • 配偶者に飽きてしまった
  • モテたい
  • 人生の春が訪れた
  • バレなければ大丈夫
  • スリルが刺激的

などで、全ての理由が自分勝手なのですが、溶けるような恋愛がしたい、このようなチャンスは二度と訪れないかもしれない、などのことを思えば人間と言うものは、何時でも心地よい夢の世界の中に居たいと思うものであり、例えば年老いた者が若い娘の虜になったとしたら、これはある意味地上の楽園とも言えるのかもしれませんが、こういった幻は何時までも続かないのです。

昔の中国の皇帝は金銀財宝、歌舞音曲、美人の若い女性など何でも手に入れることが出来て、誰もが羨むような存在だったのですが、唯一手に入らなかったものは歳を取らない事「不老」と永遠の命「長寿」だったのです。

中国の歴史書の「史記」によれば秦の始皇帝に対して「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と進言した徐福は始皇帝の命を受けて不老不死の妙薬を得るべく3千人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を満載した船を出して東方に向けて出港したものの、待てど暮らせど、ついに中国に帰ってくることが無かったとされます。

不邪淫戒を破ったら

不邪淫戒を破れば地獄餓鬼道行きで、仮にバレてしまってこの世で何らかの制裁を受けるようなことがあったにしても、仏教的に言えば既に為してしまった行為は消すことが出来ませんので、自業自得の大原則によって何らかの償いは必要になるのですが、残りの人生を罪の償いに費やすことで相対的に罪を軽くすることは可能です。

しかし真実がどうなるのかは自分で決めることが出来ませんので、その時でないと分からないことです。

目の前に美味しいものが来たら誰もが惑わされるもので、それが人間の性であり、愚かな所なのですが、欲望というものは何時の時代でも私達を惑わすものなのです。

欲望について

私達は次々と湧いてくる欲望を満足させることで社会や経済が動いているのですから、私達にとって必要な事でもあり、時には身を滅ぼすこともあるのです。

欲望の正体

釈迦は悟りの前の瞑想の段階に於いて、悟りを邪魔するためにこの世の邪悪な神々がこぞって金銀財宝や美女の色仕掛けで誘惑し、恐怖の仕掛けで脅したそうですが、釈迦はそういったものの真の姿を見破っていたので相手にすることなく瞑想を続けると、やがて寂静の境地に到達したのです。

私達は生まれ変わり死に変わりがあるとしたら、欲望のままに生きていけば確実に下の世界に堕ちていく運命にあり、欲望はある意味魂をおとしめるための罠なのですから、自らの魂が堕ちていかないようにするためには、その罠にはまらない様にすることが大切でなのです。

全ては自らの魂のためと思い、目の前に来た美味しい話に飛びつくのは釣られた魚と同じだということを悟り、永遠に続く幸せを目指すのが仏教なのです。

釈迦はこの世の快楽は全て幻であると説き、生じては消えを繰り返し、幻が生じる度に飛びつく愚かな人達の行く先を見た時に、快楽の正体を見破ったのです。

自らの魂の平安のためという大きな目的を持ち、真の意味で他を喜ばす欲望こそが仏の欲望であり、願いであり、祈りなのです。

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誰かの犠牲の上に立つ幸せ

自分勝手な不倫の結果として家庭が壊れ、不幸を作り出してしまったとしたら、壊された家族の者一人一人が一生その重荷を背負って生きていくことになります。

その上で新たな幸せが生まれたにしても、家庭を壊したことや、捨ててしまった家族への罪の意識は消えることなく、それに壊された家族の者からの恨みの気持ちも重なって、新たな幸せもやがて幻となって崩れ去ってしまいます。

ある日突然目の前においしい餌が降りてきたら、冷静な判断を失ってしまい、そのことだけしか考えることが出来なくなって、誰もが飛びついてしまうのが人間の悲しい性なのです。

今よりも、もっと楽しいことがある、もっと良いことがある、という考えは決して間違いではありませんが、折角積み上げてきた世界を放り投げて新しい世界に飛び込んでも、所詮まぼろしなのです。

特に誰かの犠牲の上に立つような幸せは真の幸せではありません。

仏の幸せは「他の幸せを自分の幸せとして喜ぶ」ことです。

他が幸せになるようにと努力すれば、その結果として最後に気が付いたら自分も幸せになっているのです。

裏切られた立場の方へ

ある日突然居なくなった、離婚届を出されていた、などの裏切られた立場の方は世の中にたくさん居られて、屈辱的な思いをした上に、苦労の連続で、日々を過ごすということが大変な苦しみであるということであることをお察し申し上げます。

何度も死のうされた方もたくさん居られます。

世の中の善悪というものは、天が見て居られますので、悪いことをした者は罰を受けるだけのことで、これが自業自得と言うものであり、可哀そうなことではありますが、憐れむしか他に方法はありません。

災い転じて福となす」災いが福の材料であり、どこからか飛んでくるようなものではありません。

目の前にある災いを福に変えるしかないのです。

どうせならとびきり上等の福に変えて頂きたいもので御座います。