無駄とは
無駄とは役に立たないこと、意味のないこと、してもその甲斐がないことを言います。
無駄遣い
お金の使い方で無駄遣いとは、必要の無い物や役に立たない物、価値の無い物、使いもしない物などを買い漁ることを言います。
お金を計画的に使う人は無駄使いが少なく、お金の管理が出来ない人は無駄遣いばかりしますので、結果としてお金が貯まるようなことはありません。
欲しいと思ったら思わず買ってしまう衝動買いも、一回限りでしたら誰にでもよくあることですが、衝動買いばかりする人は知らないうちに借金が増えていき、生活が破綻するような人も居ます。
やっても無駄
自分としては素晴らしいと思う長い間温めていたアイデアを会社の会議で発表したら「やっても無駄に決まってる!」の一言で却下された時にはもうショックで落ち込んでしまいます。
いろんな経験をしている上司の立場からは、ある程度の行動の結果は既に分かっているので、役に立たないアイデアだと思ったら、実行しても時間とお金の無駄になってしまうので却下されるのですが、世の中には絶対にダメだとか不可能などはありませんので、最初からダメだと決めつけずに、上手く行くように導くのが上司の役目であり、部下の才能を引き出す良き上司なのです。
無駄話
無駄話とは、つまらないおしゃべりばかりしていることで、「無駄話ばかりしていないで仕事しろ!」のような使い方をします。
しかし人と人とのコミュニケーションを潤滑にするのに無駄話は必要で、時には大切なことにも繋がりますし、何よりも気の合う者同士の何気ない会話は楽しみでもあるのです。
世間話やうわさ話などにやたら詳しい人は話の主導権を握り、何でも知っていて人気者ですが、それと幸せであるかどうかは別問題であり、人気者だからと言って常に心穏やかで居られるのではなく、ただ注目を浴びてちやほやされるというだけのことで、真の意味で人から信頼されたり安心感を与える訳ではありません。
仏教の開祖の釈迦でしたら、無駄話をしている暇があるのなら修行しなさいというはずであり、無駄話は悟りや魂の向上には何の役にも立ちません。
私達が今生きている間の時間は限られていて、その間に与えられた使命を全うしようとしたら、到底無駄話などをしている暇はないはずなのですが、それは魂のレベルでの使命を感じた者の考えであって、世の中にはいろいろな魂のレベルの人が混在するのですから、人として幸せになるためには、ある程度の無駄話は必要なことであり、無駄話の中にも意図的に有意義な内容を盛り込めば良いのです。
人生に無駄はない
何の目的も無くダラダラと過ごしてしまった時間や、これしかないと思って夢中になって真剣にやっていたことが大失敗したり、病気や怪我が原因で途中で挫折したりなど、時間やお金、労力を無駄にしてしまうことは誰にでもあるものです。
しかしどんなに遠回りしても、無駄な時間を費やしても、今の自分があるのは全てのことの積み重ねの結果としてであり、無駄な時間だと思っていても、それが無かったら今の自分ではなかったかもしれないのです。
今の自分と将来の自分を良くする方法は、過去の自分を否定しないことです。
否定しないとは、無駄なことは一つも無かった、全部必要だったと思うことなのです。
密教の曼荼羅は大日如来の悟りの内容が展開されていて、外側にはおよそ仏とは関係の無い鬼神も描かれていますが、大日如来の智慧の世界では法を求める求道者としての役割があり、曼荼羅を構成する要素として必要不可欠な存在なのです。
悟りの段階としては仏法を知らない者が仏法を知り、自らの過ちに気付いて仏門に入り、法を学び、修行をしていくことによって真実の世界が開けてくるのです。
そういう意味では人生に無駄は無し、私達の人生の全ての瞬間が仏の導きによって展開されているのです。