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三衣一鉢について
釈迦の時代には出家した修行者である比丘(びく)は修行に専念するべきということで、俗世間の欲望を捨てると共に、自分の物を所有したいという所有欲でさえ捨て去るために一切の所有を認めませんでしたが、唯一修行のために必要な物として「三衣一鉢」(さんえいっぱつ)のみ所有することを許されました。
三衣一鉢の内容
比丘が山野で修行する時の衣である安陀会(あんだえ)、鬱多羅僧(うったらそう)、僧伽梨(そうぎゃり)と一つの鉢が三衣一鉢です。
安陀会(あんだえ)とは
安陀会(あんだえ antarvāsaka)は日常の作務や修行中、さらに就寝中まで着用する普段着的な衣で下着に相当し、中衣(ちゅうえ)・中宿衣(ちゅうしゅくえ)・内衣(ないえ)・下衣(げえ)とも言われます。
インドでは比較的暖かい気候なので、下着としてはこのようなもので充分なのです。
三衣の中でも最も小さく、腰に巻き付けるスカートのような巻き方をします。
鬱多羅僧とは
鬱多羅僧(うったらそう uttarā saṃghāṭī)は上着の役目を果たし、肩から膝にかけて全身を覆うように着用します。
僧院内での修行全般で着用し、生地の長さや着方によって、右肩を出す着方を偏袒右肩(へんだんうけん)、両肩を覆う着方を通肩(つうけん)と言います。
鬱多羅僧は他に、入衆衣(にっしゅえ)、上衣(じょうえ)・上著衣(じょうちゃくえ)などの呼び方があります。
僧伽梨とは
僧伽梨(そうぎゃり saṃghāṭi)は外出の時に着用する衣で左肩に掛けます。
我が国では僧侶が衣の一番外側に羽織る袈裟のようなものです。
僧院や精舎などから街に出て托鉢する時や、王宮に招待された時などに着用する衣です。寒い時には両肩を覆うように羽織り、防寒の役目を果たします。
鉢とは
鉢とは托鉢に出掛ける時の器であり、本来は食事の供養を受けるための物で、僧院から出て民家を回り、食事や果物などの供養を受けるための物です。
僧侶に食べ物を供養することは功徳になりますので、村人は功徳を積むために競って食べ物を鉢の中に差し出します。
僧侶は皆が功徳を積むために僧院で毎日厳しい修行をしている中で、皆が徳を積むためにと歩いて回っているのですから、差し入れしてもらっても礼を言う事はありませんし、差し出した方が「このような機会を作って下さって有難う御座います」と礼を述べるものなのです。
糞掃衣(ふんぞうえ)とは
釈迦の時代には修行僧は毎朝托鉢に出て食べる物を集めて回るのが日課で、あとは修行のみの生活で、普通の人のように生活のために働くということをしませんでしたので、身に付ける衣は、捨てられていた布を拾い集めて縫い合わせて作っていたのです。
所有しない事
仏教の基本は欲望を捨てるという事で、物を所有しない事ですが、ゆがめられた解釈として利用されることもあるのです。
お布施しなさい
末期がんを宣告されて「癌は必ず治る」という新興宗教に入信し、最今のあなたは欲望に取り憑かれて体を悪くしてしまったのだから「お金の欲望を捨てないと絶対に治りません」、「持っているお金は全て御布施しなさい」、ということでお金を失くして哀れな末路を辿った人は数知れず。
「御布施しなさい」という言い方は柔らかい言い方ですが、「お金を出しなさい」の目的で使われることがありますので、気を付けましょう。
終活とお焚き上げ
終活とは自分が亡くなった時に周りの人に迷惑を掛けないようにと早い時期から片付けをすることです。
自分の周りをよく見まわしてみますと、要らない物ばかり、どうせ死んだら捨てられるのだからと思い切って処分して身を軽くすることはある意味仏教的な思想なのです。
まだ使える物は慈善団体や寺院などに寄付をしても良し、使うか使わないか分からないような物は捨てても良し、思い出が詰まっているから捨てられないような写真や記念品などはお焚き上げで天に送るのも良し。
たくさんの物に囲まれて、物質的な豊かさを享受している私達にとって、物が豊かな事が心が豊かであると思ってしまいますが、物は永遠では無いこと、何時までも自分の物では無いことを思えば真の意味での心の豊かさを追求するためには物の束縛、呪縛から離れる必要があるのです。