他力本願とは
他力本願とは阿弥陀如来の立てた本願に頼って極楽浄土に往生して成仏することです。
他力本願は他人任せ?
他力本願は仏教用語なのですが、日常の場面で使われる時には「彼のやり方は何時も他力本願だ」などの使い方をされてしまい、この場合には自分で努力することなく他人に任せっきりだという非難の対象としての使い方をされるのですが、こういった使い方は実は間違いなのです。
特に浄土教では根本教義に関わることですから重要なことと捉え、公的な場で間違った使い方をすれば教団から訴えられることもありますので注意が必要です。
2002年5月にオリンパス光学工業が全国紙に出した広告「他力本願から抜け出そう」は真宗教団連合の抗議に対して配慮が足りなかったと謝罪しています。
他力と本願
仏教用語としての他力本願の「他力」とは「阿弥陀如来の力」のことで「本願」とは「あらゆるものを極楽浄土に往生させようとする請願」のことです。
ここで「他力」を文字の通りに「他人の力」という解釈をすると「他人任せ」という解釈になってしまうのです。
只ひたすらに阿弥陀如来の力に頼って念仏をすることが浄土教の基本なのです。
自力は必要ありませんか?
他力本願の他力は阿弥陀如来の力のことであり、極楽浄土の教主ですから、極楽浄土に案内してもらおうと思ったら阿弥陀如来に頼るしか他に方法が無い訳であり、真言宗では大日如来の真言を唱えるように、阿弥陀如来の念仏を唱え続けることが大切なのです。
念仏について
「仏説無量寿経」には阿弥陀如来が宝蔵菩薩だった時に立てた48の請願があって、これらの請願を成就させたからこそ如来になったと言われています。
48請願の第十八願は題名を「念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願」と言います。
「第十八念仏往生の願」には「私が仏になる時、全ての人々が心から信じて、私の国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることが出来ないようなら、私は決して悟りを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」とあり、阿弥陀如来が悟りを開いている以上、全ての人がもう既に救われていると説いているのです。
頼ることも修行
私達は日々の修行の中でどれだけ仏に近づくことが出来るかということを実践し、密教では自身と仏が不二の境地である「入我我入」を目指し、更には生身の体を持ったままで大日如来と一体化する境地である「即身成仏」を究極の目標とします。
自分が仏に近づく努力をすれば仏も自分に近づいて下さるというのが私達と仏との関係なのです。
念仏に於いても阿弥陀如来に頼るべく念仏を唱え続ければ阿弥陀如来からも近づいて下さるという関係ではないでしょうか。
念仏行は一生を掛けての修行であり、唱え続けることで得られるものがあることは、真言マントラと同じ作用なのです。
虚空蔵求聞持法は虚空蔵菩薩と一体化するための修行法で、虚空蔵菩薩の真言を百日間かけて百万遍唱える荒行で成就すれば無限の記憶力が得られると言われてますが、この修行法は一回で終わりではなく、実は一生をかけて続ける修行でもあります。
自分という物が一切なくなって虚空蔵菩薩に身を任せ、虚空蔵菩薩に全て頼り切る境地こそ完成された姿ではないでしょうか。