不動明王の火焔光背とは

不動明王と梅の花

高野山真言宗やすらか庵のお焚き上げ場の不動明王様の後ろには梅の花が咲き始め、いよいよ春の足音が迫って参りました。

不動明王は一般的に後ろに火焔を背負っていますが、不動の大地の神であるにも関わらず燃え盛る火焔を背負っておられるのは何故でしょうか。

不動明王の真言と印、功徳について

それは私達が持っている煩悩を焼き尽くすためであると言われ、仏教の修行では煩悩は消すものとされますが、元々煩悩というものは燃え盛っているのであって、満足させても満足させてもまたメラメラと燃え盛って決して消えることの無い火が煩悩の正体なのです。

煩悩と釈迦

燃え盛る煩悩の火を消し去ったのが釈迦であり、釈迦の悟りの世界は穏やかで波一つ無い湖のような世界ですが、そこに到達することは常人では困難なことなのです。

私達は宗教など知らなくても人間として生まれてきた以上、次々と欲望が湧いてくるはずです。

欲望とは人よりも良く見られたい、良い思いをしたい、優越感を持ちたい、などの気持ちのことで、優越感を持ちたいが故に人を蹴落としてやりたい、などの良からぬことを考えてしまうものです。

釈迦は人として誰もが持つ煩悩の原因として三毒があると説きました。

三毒とは

三毒とは貪瞋痴のことです。

「貪」は貪りの心で人よりもたくさん欲しい、人の物でも欲しいという気持ちのことで、欲しいという気持ちに支配されて人を傷つけても気が付かない程になってしまいます。

「瞋」は怒りの心で、絶対に許せない、仕返しをしてやるという気持ちのことで、怒りの気持ちに支配されて、他人に対して攻撃的になってしまい、小さなことでは喧嘩に、大きいことでは戦争になってしまいます。

「痴」は無智のこと、真実を知らない心、真実を知ろうとしない心で、いい加減な情報や嘘、デマなどの情報に振り回されて正しい判断が出来ない状態のことです。

煩悩は楽しいもの

欲望の象徴としての煩悩は人として生きる楽しみでもあり、美味しい物が食べたいとかお金持ちになりたい、素敵な家に住みたい、格好良い車に乗りたいなどの煩悩があるからこそ経済社会が発展するのであって、煩悩があるからこそ人として生きていくのが楽しいのかもしれません。

しかしながら煩悩のせいで人と人とが争いになったり傷つけ合ったりするのですから、煩悩の火は小さい内にはまだコントロールできますが、だんだん大きくなってきますと制御不能になるという恐ろしい一面を持っているのです。

自己満足について

煩悩にしても自己満足の煩悩はどんどんエスカレートしていって、他人を傷つけても分からないようになってしまいます。

例えばギャンブル、自分一人だけで生活に支障ない程度にしているなら害はありませんが、借金したり家のお金を持ち出したりするようになれば確実に生活が破綻してしまいます。

他を利すること

煩悩を満足するにしても自分一人だけで満足するのではなくて、家族のため、子供のためということであれば、旅行にしても楽しいですし、買い物にしても自分の物だけを買うのではなくて、家族のために買ってあげることは利他行に繋がるのです。

利他行とは仏の姿であり、私達にも出来ることで、慈悲の心にも繋がります。

不動明王の心

不動明王は煩悩の炎を背にして自らも炎の中に有りながらも私達に対して仏法を説いているのです。

悪を断ち切り、正しい心を持つこと、これが不動明王の心です。

炎の後ろには白い梅の花が咲き出しました、煩悩の炎の中に有っても仏の心としての花でこの世を埋め尽くしなさいよ、ということでしょうか。