天界、天道、天国とは

天界のイラスト

天界、天道、天国とは死後の世界の楽園、或いは神々が住む世界であり、仏教では衆生輪廻転生する六道の最上部であり、人間界の上にある天人の住む世界のこと。

輪廻転生と天界

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私達は六道と言われる地獄餓鬼、畜生、阿修羅人間天界の六つの世界を生まれ変わり死に変わりしているとされ、六道の中でも最上位にある天界は苦しみというものがほとんど無く、温かくて穏やかな世界であり、そこに住む住人は私達人間と比べてはるかに寿命も長く、穏やかで争いの無い理想の世界なのです。

そういう理想の世界である天界にも唯一の苦しみがあり、いくら長い寿命があるとしても、何時かは必ず終わる時がくる訳で、その終わり方が花が枯れてしぼんでいくよう消え去っていくという惨めな思いをするそうです。

六道にはどの世界にも快楽もあるが苦しみもあることから、苦しみの無い世界に行くには悟りを開いて仏になれば、六道から脱出することが出来るのです。

しかしこの六道の世界から脱出するための方法としての「悟り」の領域に達した者は釈迦以前にも以後にも居ない訳で、釈迦の入滅から約2千5百年経過した現在までに膨大な数の修行者が悟りに挑んでも釈迦の領域に達することが出来ないのは、悟りの困難さを物語っているのです。

極楽浄土と天界

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極楽浄土も天界も花がたくさん咲いていて蝶が飛び交い明るくて暖かく、平和で争いの無い世界という意味では変わらないような気がするものです。

しかし極楽浄土には如来が住み、天界には天人が住んでいるので住人が全く違います。

そして極楽浄土では寿命がなく生まれ変わりもないけれど、天界の住人には寿命があること、生まれ変わりがあることのような違いもあるのです。

釈迦の悟りは難解で修行も困難、私達凡人が到達できるような領域ではないことから、我が国では浄土宗の開祖である法然のように「ナムアミダブツ」と称えさえすれば誰でも救われる、という方法が多くの民衆に指示され、今もなお続く一つの宗教として確立したように、私達は自ら難解な修行をしても悟りには到達できないのなら、阿弥陀如来に救ってもらおう、そのための念仏を称えよう、というのが煩悩を捨てきれずに戒律も守れない私達に対する救いの手になっているのです。

しかし阿弥陀仏の極楽浄土は、完全に悟りを得た如来の浄土なので、そこの住人になるには悟りを得たことが条件ということになります。

浄土宗の根本経典の「仏説無量寿経」には阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が如来になるために立てた48の願いが示され、その中の第十八願には「私が仏になるとき、全ての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、十回でも念仏して、もし私の国に生まれることができないなら、私は決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」と説かれている部分こそ、法然が最も重要視した部分なのです。

今ではないかもしれないけれど、何時かは必ず救うと言って居られるのだから、それを信じて念仏しなさい、ということなのです。

浄土に導いてもらえるためには強い信仰心と並々ならぬ努力だけは必要なのです。

天界を目指す

私達が悟りを得て仏になるようなことがなくても目指せる理想の場所は人間界か天界です。

人間界に生まれたら修行できるチャンスがあり、場合によっては釈迦のように悟りを得て仏になることも可能です。

運よく天界に生まれたら相当に長い間楽を享受することが出来ます。

天界では人間の何万倍、或いは無限に近い寿命があり、争いも無く苦しみの無い世界なのです。

六道の中では最高位の世界ですから、悟りが無理だと分かったら絶対に目指すべき世界なのです。

但し六道の世界というものは悪事を重ねればどんどん落ちていきますし、たとえ上位の天界でも楽を享受するだけの生活をしていれば落ちていくという不変の原理があります。

天界の住人

天界の住人として有名なのは仏法守護の四方向を守る役目の四天王、同じく仏法守護の十二天、七福神の大黒天、女性の神の弁才天などですが、四天王の中でも多聞天と言われる毘沙門天が別格扱いなのは衆生の救済活動をしていることと、私達の身近な所で活躍していることから、単独でも信仰されているのです。

浄土は悟りを得て如来にならないと行けませんが、天界は悟りを得なくとも行ける世界ですから是非目指していきたいところです。

私達人間の世界に生まれるだけでも実は大変な事で、相当の徳を積んでいないといけませんが、また人間に生まれたいと願ったら天界を目指していればその可能性は高くなります。

天界は私達の心の中にもある

私達の心の中には地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天界の全ての世界が存在し、心のレベルに応じていろんな世界とつながっていると実感する人は多いはずです。

たとえば相手に対して「もっと苦しめ」や「死んでしまえ」と思う時は地獄の世界につながり、「もっと欲しい、まだ欲しい」とガツガツしている時は餓鬼の世界、食って寝るばかりの時は動物の世界、「年下のくせに自分より偉くなりやがって」と闘争心むき出しの時には阿修羅の世界、そして他が苦しんでいる時にはすぐに手を差し伸べ、他の幸せが自らの幸せぶある時には天界につながっているのです。

私達の心の中にも宇宙があり、心の中で宇宙が完結していると共に、大いなる宇宙の世界につながっているのです。

そういう意味で言えば私達の心の中にある天界は実際の天界であり、可能な限り天界の心にすれば良いのです。

私達の心の中は、自分が思うことが実際の形になって現れるものです。

「もっと苦しめ」や「死んでしまえ」と思っていればそういった世界ばかりが自分の周りに広がって地獄の世界になり、人間世界に居ながらでも地獄の苦しみを味わうことになります。

「ありがとうございます」「良かったですね」「あなたが嬉しければ私も嬉しいです」という思いが心の中に溢れていれば天の世界が広がって、人間世界に居ながらでも天の世界が実現するのです。

天界への修行

天の世界につながるための修行は毘沙門天の修行が最も充実しています。

毘沙門天開運法-礼拝、真言、九星術

毘沙門天王功徳経-訳と解説、勤行の仕方

利他行のすすめ

三千大千世界

三千大千世界

私達の世界は仏教に於いては三千大千世界と呼ばれる世界の一つであり、三界で構成され、三界とは欲望に満ちた「欲界」、色はあるが欲望が無い「色界」、色や欲望から離れた「無色界」のことです。

須弥山にあって、欲望がまだ残る色界の六欲天、色はあるが欲望が無い色界の初禅天、第二禅天、第三禅天、第四禅天、色や欲望から離れた無色界の無色天から成ります。

六欲天とは

六欲天とは天界の中でも人間界に近い世界であり、欲望が残る世界のことです。

他化自在天

他化自在天(たけじざいてん)とは欲界の最高位で、六欲天の第6天になります。

天魔波旬が住むとされます。

化楽天

化楽天(けらくてん)とは六欲天の第5天になります。

この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境にすることが出来ます。

兜率天

兜率天(とそつてん)とは六欲天の第4天になります。

須弥山の頂上で、高さが12由旬の処にあります。

夜摩天

夜摩天(やまてん)とは六欲天の第3天になります。

時に随って快楽を受くることが出来る世界です。

忉利天

忉利天(とうりてん)とは三十三天とも言われ、六欲天の第2天になります。

須弥山の頂上で閻浮提の上、高さ8万由旬の処にあり、帝釈天が居ます。

四大王衆天

四大王衆天(しだいおうしゅてん)とは六欲天の第1天になります。

四天王と言われる持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王がいる場所。

色天とは

欲望からは解放されたが、色はまだ有している世界。禅定の段階により大きく4つに分けられます。

☆第四禅天(色究竟天・善見天・善現天・無熱天・無煩天・広果天・無想天・福生天・無雲天)

色究竟天

色究竟天(しきくぎょうてん)とは色界に於ける最高の天。

阿迦尼吒天(あかにたてん)とも言い、天人の身長が16,000由旬、寿命が16,000劫。

この天より上は肉体や物質が存在しない無色界になり、形体を有する天処の究る場所であるから、色究竟天と呼ばれます。

善見天

善見天(ぜんけんてん)とは色界に於ける下から17番目の天。

天人の身長は身長が8,000由旬、寿命が8,000劫。

障碍(さまたげ)なく、よく十方を見ること、自由自在なるがゆえに、善見天と名づく。

善現天

善現天(ぜんげんてん)とは色界に於ける下から16番目の天。

この天は、善妙の果報が現れるので、善現天と名づく。

天人の身長が4,000由旬、寿命が4,000劫。

無熱天

無熱天(むねつてん)とは色界に於ける下から15番目の天。

この天は、依も処もなく清涼自在にして、熱悩がないので無熱天と名づく。

天人の身長が2,000由旬、寿命が2,000劫。

無煩天

無煩天(むぼんてん)とは色界に於ける下から14番目の天。

この天は、欲界の苦も色界の楽も共に離れて心身を煩わすものがないので、無煩天と名づく。

天人の身長が1,000由旬、寿命が1,000劫。

広果天

広果天(こうかてん)とは色界に於ける下から13番目の天。

この天に生れた者は、無想有情で、あらゆる心想(精神作用)がないので、無想天という。

天人の身長が500由旬、寿命が500劫。

無想天

広果天と同じに扱われています。

無想天(むそうてん)とは色界に於ける下から12番目の天。

この天に生れた者は、無想有情で、あらゆる心想(精神作用)がないので、無想天という。

福生天

福生天(ふくしょうてん)とは色界に於ける下から11番目の天。

凡夫で勝れた福ある者が往生して生まれ変わる場所であるため、福生天と言う。

天人の身長が250由旬、寿命が250劫。

無雲天

無雲天(むうんてん)とは色界に於ける下から10番目の天。

雲のない最初の場所であるため無雲天と言う。

天人の身長が125由旬、寿命が125劫。

☆第三禅天(遍照天・無量浄天・少浄天)

遍浄天

遍浄天(へんじょうてん)とは色界に於ける下から9番目の天。

この天は、快楽と清浄が周遍(あまねくまわる)、また浄光が周遍するので、遍照天と名づく。

天人の身長が64由旬、寿命が64劫。

無量浄天

無量浄天(むりょうじょうてん)とは色界に於ける下から8番目の天。

この天は、楽受(楽しき感覚)があり、下部の少浄天に比較すると、勝妙で量りがたいので、無量浄天と名づく。

天人の身長が32由旬、寿命が32劫。

少浄天

少浄天(しょうじょうてん)とは色界に於ける下から7番目の天。

この天は、意識に楽受(楽しき感覚)があり、清浄であるため、また色界の第三禅の最劣なる意であるので少浄天と名づく。

天人は身長が16由旬、寿命が16劫。

☆第二禅天(光音天・無量光天・少光天)

光音天

光音天(こうおんてん)とは色界に於ける下から6番目の天で、極光浄天とも言います。

この天は、音声がなく、何かを語るときには口から浄らかな光を発して言語の作用とするので、光音天と名づく。

天人の身長が8由旬、寿命が8劫。

無量光天

無量光天(むりょうこうてん)とは色界に於ける下から5番目の天。

この天は、生れると身体より無量の光明を放つので、無量光天という。

天人の身長が4由旬、寿命が4劫。

少光天

少光天(しょうこうてん)とは色界に於ける下から4番目の天。

この天は、生れると身体より光明を放つが、上部の無量光天よりも少ないので、少光天という。

天人の身長が2由旬、寿命が2劫。

☆初禅天(大梵天・梵輔天・梵衆天)

大梵天

大梵天(だいぼんてん)とは色界に於ける下から3番目の天。

初禅三天(大梵天・梵輔天・梵衆天)の中では最高位となる梵天の住む処。

天人の身長が1.5由旬、寿命が1.5劫。

梵輔天

梵輔天(ぼんほてん)とは色界に於ける下から2番目の天。

梵天の手前の天には、護衛たちが居並んでいる。そのため梵輔天と言う。

天人の身長が1由旬、寿命が1劫。

梵衆天

梵衆天(ぼんしゅうてん)とは色界に於ける下から第1番目の天。

梵天が所有したり化身したり支配する天衆がいるため、梵衆天という。

天人の身長が0.5由旬、寿命が0.5劫。

無色天とは

天部の最高部に位置し、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界のこと。

非想非非想処

非想非非想処は非有想非無想処、有頂天とも言われ、無色界の最高の天。

何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣な想のみが存在する定。

有における天界の最上部であるため、これ以上の物は無いということでの最高の喜びのことを有頂天とも呼ばれます。

無所有処

無所有処とは無色界の下から数えて第3天になります。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。

何も存在しないと観察し達観する事です。

識無辺処

識無辺処とは無色界の下から数えて第2天になります。

認識作用の無辺性についての三昧の境地であり、識は無限大であると思惟する定。

空無辺処

空無辺処とは無色界の一番下の第1天になります。

物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地であり、空間が無限大であると思惟する定。