我慢とは

我慢する事

我慢とは仏教で説かれる煩悩の一つであり、自分に執着した結果として自分を高く、他人を低く見る慢心のことですが、現代では耐え忍ぶという意味合いに使われています。

慢心には四慢と七慢があり、我慢はその中の一つです。

四慢とは

四慢(しまん)とは増上慢(ぞうじょうまん)・卑慢(ひまん)・我慢(がまん)・邪慢(じゃまん)の四種類の慢心のことです。

  • 増上慢…悟っていないのに悟ったと思い込みおごり高ぶること
  • 卑慢…非常に優れている人を見ても自分はほんの少ししか劣っていないと思うこと
  • 我慢…自分の事ばかりに執着しておごり高ぶること
  • 邪慢…間違った行いを正しいと思い込み、徳が無いのに徳があると思い込むこと

七慢とは

慢(まん)・過慢(かまん)・慢過慢(まんかまん)・我慢(がまん)・増上慢(ぞうじょうまん)・卑慢(ひまん)・邪慢(じゃまん)の七種類の慢心のことです。

  • 慢…自分より劣っている人には優越感を持ち、同等の人には自分と等しいと心を高ぶらせる
  • 過慢…自分と等しい人には自分が優れていると思い高ぶり、自分より優れている人には自分と同じと侮る
  • 慢過慢…他人が優れていることを認めず自分の方が優れているとうぬぼれて相手を見下すこと
  • 我慢…自分の事ばかりに執着しておごり高ぶること
  • 増上慢…悟っていないのに悟ったと思い込みおごり高ぶること
  • 卑慢…非常に優れている人を見ても自分はほんの少ししか劣っていないと思うこと
  • 邪慢…間違った行いを正しいと思い込み、徳が無いのに徳があると思い込むこと

仏教的我慢

仏教的な我慢は普段私達が使っている我慢とはニュアンスが違い、おごり高ぶる心のことで、プライドのようなものです。

相手よりも少しでも自分が優位に立ちたい、憎い相手を見下してやりたい、という心は誰にでもあるものですが、そういったプライドを持っていることによって、知らないうちに他人を傷つけていたり嫌われたりしているものです。

仏教的には我慢は自分自身に執着することによる煩悩ですから「我慢を捨てる」という言い方が正しいのかもしれません。

耐え忍ぶ我慢

昭和時代のテレビ番組ではクイズ番組の罰ゲームとして「熱湯風呂」や「氷風呂」「ゴムパッチン」などの熱さや痛さを我慢する姿をおもしろがる風潮がありましたが、皆が生活の向上を目指して貧困を乗り越え、苦労を我慢して乗り越えてきた背景があったからこそ我慢を笑えるのだと思います。

欲しがりません勝つまでは

1942年(昭和17年)、大政翼賛会と新聞社が「国民決意の標語」を募集したところ32万通以上の応募の中から選ばれたのが「欲しがりません勝つまでは」でした。

「贅沢品は決して欲しがりません、戦争に勝つまでは」という意味になり、戦争に勝つまでは国民が一致団結して節約して生活を慎み、国のために奉仕しましょう、という意味なのです。

今の平和な時代には考えられないような標語ですが、国のために金属などの生活物資を提供したり、若い人たちが戦争に駆り出されて命を捧げることが当たり前の時代で、逆らうことが許されず自由の無い戦争は繰り返してはいけません。

我が国では「我慢すること」「耐えること」が美徳ともされた文化があります。

昭和58年(1983)に放送した、脚本家・橋田壽賀子が手がけた連続テレビ小説「おしん」の主人公おしんは明治40年に山形の貧しい農家に生まれ、7歳で子守奉公に出されて以降、さまざまな逆境に耐えながら明治、大正、昭和の激動の時代を生き抜いた一代記でした。

そのおしんがさまざまな逆境に耐えている姿が感動を呼び、平均視聴率52.6%という驚異的な視聴率をたたき出したドラマだったのです。

この頃の時代に生き抜いた人達は激しい時代の変遷の中で、皆が貧乏な生活を耐え忍び、希望の光を求めて努力した人ばかりで、こういう人たちの苦労と努力があったからこそ今の豊かな生活があることを忘れてはいけません。

釈迦の忍耐

釈迦の成道

釈迦在世当時の宗教の修行法と言えば難行苦行が多く、立ったままで横になることの無い修行や、断食をして座禅を続ける修行などの体を痛めつけることで肉体の限界の先に悟りの世界があると考えられていました。

悟りに至る修行はただひたすらに耐える修行でもあったのです。

釈迦が悟りを開く前の段階でも釈迦は難行を続け、何も食べずに瞑想修行を続けていて、体は骨と皮だけになり果てていましたが、ナイランジャナー川で沐浴した後に村娘のスジャータから乳糜の布施を受けて体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想し、ついに悟りを得ることが出来て仏陀になったのです。

難行苦行が悟りに至る道だと信じられていたので、釈迦が村娘のスジャータから乳糜の布施を受けたことで堕落したと思われて付き人達は去って行ったそうです。

釈迦は最終的には難行苦行が何の役にも立たないことを悟りますが、釈迦の修行の道のりの中で無駄なものは一つも無かったはずです。

釈迦も耐える修行を続けていたからこそ、その先の悟りに到達できたのです。

耐えること

毘沙門天の邪鬼

毘沙門天の足で踏まれ続けている邪鬼は天邪鬼(あまのじゃく)とも言われ、元々は衆生を惑わし災難をもたらす鬼でしたが、毘沙門天に教化されて仏法を守護する役目を与えられました。

かつて鬼神として悪事を働いていた時に、毘沙門天から踏まれて調伏された時の表情が苦悶の耐え忍ぶ姿なのですが、耐えるということは苦しい事であり、辛い事ですが、その苦しみを乗り越えてこそ仏法守護の鬼になることが出来たのです。

わがまま放題で人に迷惑をかけるばかりの鬼であっても正しい法には叶わない、従わざるを得ないが、悪事を働いていた心がそう簡単に変わる訳ではなくて、長いこと毘沙門天に踏まれ続けて説教されてようやく正しい心を取り戻したのです。

そういう意味では耐えることは忍辱波羅蜜と言う修行なのです。

少しぐらい苦しいことがあっても我慢しましょう。

少しぐらい辛いことがあっても我慢しましょう。

しかし我慢し続けると心と体を病んでしまいますので、心を楽しい方向に向けると良いのです。

今の時代新型コロナで仕事や家庭が上手くいかなくなった方が多く、我慢の連続になってしまいますが、こういう時には家の中で楽しめることをしましょう。

こういう時が家庭の中を思い切って大改造出来るチャンスなのです。

掃除、片付け、DIYなどでなるべくお金を掛けずに家の中の雰囲気を変えれば、結果としていろんなことが動き出します。

そしてこういう時だからこそ家庭の中での会話を大切にしましょう。

こういった実践を続けることで、我慢している自分がいつの間にか楽しみを探し出す自分に変わっていくのです。