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「気にしないこと」
私達の心が様々な出来事や周囲の環境によって常に動かされているのは、いろんなことが気になるからであり、心の冷静さを保ち、心が動かないためには「気にしない」という修行が必要になります。
気になること
私達は物事に集中している時には他のことが気になりませんが、集中できない時にはいろいろな雑念に支配されているものです。
例えば勉強に集中しようとしている時にお腹が空いていたとしたら忽ちお菓子でも食べようか、どんなお菓子が良いだろうか、この前食べたお菓子がおいしかったな、などの雑念が次々と湧いてきて勉強することを忘れてしまいます。
食べたいと思ったお菓子が家に置いて無かったら、何処に買いに行こうか、今の時間店は開いているだろうか、出かけるには服を着替えないと、親に見られたら何と言おうか、などの気になることが次々と湧いてきます。
私達の心の中には、本当は気にしなくても良いことばかりで満たされていて「雑念」と言いますが、多くの雑念が常に次々と湧き出てきては消え去るということを繰り返し、ほとんどの人が一日の大半を雑念に支配されていますので、何かに集中する、或いは無の状態になることが非常に困難なのです。
どうでもよい雑念ばかりに時間を費やしているのは私達の世界よりも低い世界の餓鬼の世界や動物の世界であり、魂の向上が無いままに生きている時間を終えてしまいます。
あなたの周りに只ひたすらに食べては寝てを繰り返すだけの、牛や豚にそっくりな人が居ませんか?
あなた自身もだらだらと毎日を過ごす怠慢人間になっていませんか?
私達人間は本来は雑念に支配されることなく、魂のレベルを高めることが出来る類まれな存在であることを意識しなければいけません。
気にすること
人には細かいことをやたらと気にするタイプと、実におおらかで細かいことを気にしないタイプの人が居ますが、細かいことを気にする人と気にしない人の違いは何でしょうか。
その原因の一つに「こだわり」があります。
人には特定の分野に対して「どうしてもこうでなくてはいけない」というこだわりが誰にもあるもので、服を買うにしても好みのブランドが決まっていたり好きな色や嫌いな色、材質などに何かしらのこだわりがあるものです。
自分のコレクションに対して際限なくお金を使う人にとっては集めたこだわりのコレクションは宝物であり、それを眺める時間は至福の時間になりますが、そういった事に対して興味の無い人から見れば何の価値も無いゴミにしか見えないのです。
こだわりの強い人が自分のこだわっている物について語ればいつまでも話をするのは、細かい点まで見たり聞いたり調べたりして知っているからであり、常に細かいところまで気にしているからなのです。
こだわりの強い人は同じ趣味を持っているような人とは気が合いますが、価値観を認めない人や違う価値観の人とは気が合わないことが多いです。
その反面実におおらかで細かいことを気にしない人は、特定の何かにこだわるということをしませんので、細かいことを言いませんし、誰に対しても温厚で接しやすいのです。
仏教の教え
釈迦は人間の苦しみの原因は執着であるから「こだわり」を捨てなさいと説いています。
こだわりを捨てる事
苦しみの世界から抜け出して安楽の悟りの世界に行くためには「こだわり」執着、つまり欲望、煩悩を持っていてはいけないのです。
しかし釈迦の教えは仏になるための悟りの教えであって、仏になるという事は至難の業であり、欲望を捨てるということは特に在家の者にとっては困難な事なのです。
仏教では遊ぶことも旅行に行くこともグルメもレジャーも全て煩悩であって、そんなことをしている時間があるのなら修行しなさいと説くのですが、その理由は遊んでいても日常生活の中で穢れてしまった心が綺麗になることはなく、死後に低い世界に堕ちてしまうよりは、少しでも魂を浄化して高い世界に行くことが出来るようにしなさいよ、ということなのです。
仏教に於ける「気にしない」
仏教に於いて菩薩が如来になるための修行として六波羅蜜があり
その中でも禅定波羅蜜は心を鎮めるために静かに座って禅定することで、瞑想修行とも言いますが、禅定とは心を鎮めて雑念を取り除き、真実の世界を観るための修行であり、心を鎮めるためには雑念を取り払い、次々と湧いてくる雑念に対しては「気にしない」修行なのです。
心の中を空にする
私達の心の中には雑念ばかりが詰まっていて、楽をしたい、遊びたい、気持ち良いことをしたいなどの誘惑が次から次に襲ってきて、そういった雑念に振り回されるばかりです。
しかし楽をしたい、遊びたい、気持ち良いことをしたいなどの雑念であっても、将来への夢になりますので、そういった空想に浸ることは、夢を思い描くことは私達人間の楽しみでもあるのです。
心の中が様々な思いで詰まっていることは人間である以上、ある程度は仕方のないことなので、時々は心の中を空にしてみたら新たな発見があるはずです。
たとえば道具箱の中に色んな道具がごちゃごちゃで満杯に入っていたら、いざ使おうという時に探してみたら、どの場所に入れたか分からなくなってしまって、結局は探していることも忘れて別のことを始めるようなものです。
そういう時には思い切って道具箱の中身をひっくり返して空っぽにして綺麗に掃除してみれば、今まで中に入っていた物が無駄な物ばかりであったことに気が付くはずです。
心の中も時々は空にしてみれば、如何に不要な物に支配されていたのかがよく分かります。
心の中を空にするには
心の中を空にするには心の中に入っている物をひっくり返して捨ててしまうことですが、それは自分の持っているこだわりや価値観を捨てることです。
たとえば家族でテレビを見るにしても自分の見たい番組ばかりチャンネルを独占して見るのではなくて、家族の見たい番組を何のこだわりもなく見ることなのです。
たとえ自分の見たくない番組であっても一切気にしない、くだらないとかバカバカしいとか言うことなく笑って見ていることが出来るのがこだわりの無い状態です。
心の中を空にすることが出来る人は他の人が何を入れても怒るようなことはありません。
たとえ自分にとって何か不快な物を入れられたにしても気にならなければ、いつの間にか消えてしまうのです。
天の教え
天界の世界ではこだわることによる怒りの感情や憎しみはありません。
毘沙門天の「気にしない」の教え
2022年は寅年、虎は毘沙門天の使いですから寅年は毘沙門天の力も強くなります。
多難の時代を乗り切っていくためには強い神様の加護が必要です。
まずは毘沙門天の御札をお祀りしてみては如何ですか?
2022年寅年「新春開運特別祈願」御札送ります500円申込み
毘沙門天は妃の吉祥天と子の善膩師童子と共に家族の形態をとる家族神として有名ですが、天の世界にあって敢えて家族の形をとるのは、悟りを得る前に人として幸せになりなさい、と説くからであり、人としての幸せを成就することなしに悟りはあり得ないと説くからなのです。
私達は人として生まれた理由があって、人としての一生を大切にするのであれば、人として生まれたことに感謝し、魂の向上に努めるしかないのです。
魂の向上とは、利他行の実践なのです。
そして人としての幸せとは「人間に生まれてきて良かった」と感じることです。
家族が居たからこそ生まれてきたのであって、結婚するにしても家庭を持つにしても、相手を幸せにし、共に修行するという姿を見せてくれているのが毘沙門天なのです。
家族の中では悪いことは気にしないことです。
都合の悪いことは気にせずにすぐに忘れるべきです。
忘れることはある意味悟りであり、忘れるだけではなくて素早く気分転換出来ることです。
喧嘩したことを何時までも根に持って「許さない」なんて思うことはいけません。
私達は悟りを得て仏になることは無理でも、心掛け次第では人間の世界や場合によっては天の世界に行ける可能性は十分にあるのです。
それを教えて下さっているのが毘沙門天、とても私達に近い所に居られます。
プライドを捨てる
私達は誰でも必ずプライドを持っています。
- 自分の方法が正しい
- 自分の考え方が正しい
- 自分の方が優れている
- 相手が間違っている
このような考え方がプライドであり、自分が正しいと思うだけではなくて
- 相手が悪い
- 相手が間違っている
- 相手が間違っていることを皆に認めて欲しい
- 間違った相手の方が正しい素振りをしている
- 相手の存在が邪魔である
- 成敗して欲しい
- 私に謝って欲しい
このように相手への攻撃に繋がっていき、大抵は怒りや憎しみの感情へと発展していくのです。
プライドがある限り間違っている相手を許せないのですが、別に相手が正しくなくても自分だけが正しいことをしていれば良いだけの話で、善いか悪いかは天が決めることであり「天にお任せ」すれば良いのです。
天にお任せすることにより、プライドを持つ必要はなくなります。
善いか悪いかは天が決めて下さる、これが毘沙門天信仰の基本であり「毘沙門様、応援よろしくお願い致します、私は正しいことを実行致します」と祈願すれば必ず叶えて下さるのです。