自殺した人の遺品について

地獄

自殺した人の遺品には特別な気持ちが残っているような気がしますので人に差し上げても喜ばれませんが、亡き人に対しての供養になることはして差し上げたいものです。

どうしてよいか分からない

今まで普通に元気だった人が突然自殺したりしますと、周りの人のショックはとても大きいもので、何故気が付いてあげられなかったんだろうとか、何かして差し上げることがあったのではないかと悔やまれると共に、事実を事実として受け入れられないという気持ちで一杯になるものです。

事実を認められないという気持ちがありますと、今でもそこにいるという感じがいつまでも続いて、亡き人の周辺の後片付けはいつまでも出来ないままになってしまいます。

自殺が及ぼす影響

それだけ自殺というものは、周辺の人にまで影響を与えてしまうものですから、絶対にするべきではありませんが、世の中には今のこの瞬間にも行き詰って自ら命を絶たれる人が毎日数え切れないほどいるのはとても残念なことです。

自殺は他人に迷惑を掛けないからいいと思っていても完全に消えて無くなる訳ではありませんので、お片付けをして下さる人が必要であつたり、事件性が無いか調べたり、縁故者が居ないか調べたりと、いろんな人に多大なる迷惑を掛けるのです。

また家族が居られる方が突然自殺しますと家族の者を不幸のどん底に突き落としてしまいます。

仏教に於ける自殺

自殺は少なくとも他人を傷つけるようなことをしていないので罪としては軽そうなものですが、仏教では頂いた命を故意に断つという事に関しては自殺も殺人も罪として変わりはありませんので、残念ながら確実に地獄に行くしかありません。

私達は魂の乗り物としての肉体を頂いたのですから、その肉体を決して粗末にすることなく、また人間として生まれてきたのは、次の生まれ変わりで決して低い世界に堕ちることなく、正しい修行をするチャンスを与えてもらっているのです。

地獄の苦しみはほぼ永遠に近いもので、灼熱の中で恐怖に怯えて逃げ回り、毎日毎日四六時中、休む間もなく苦しみもがくことだけは絶対に避けなければいけません。

自殺しますと今の苦しみは亡くなるかもしれませんが、永遠の地獄の苦しみが待っているのです。

真の幸せとは

自殺をしようと悩んでいる方にとっては、今の苦しみから逃れることしか考えることが出来ませんが、お釈迦様の出家の原因は、どこにでもあるような幸せの姿が、永遠に続く人の無い見せかけの幸せであり、実は苦しみであると捉えたからであり、その苦しみから逃れるために修行したのが仏教の始まりなのです。

もっと言えば果てしなく生まれ変わり死に変わりを繰り返して、ほんの小さな幸せを掴んだと思ったら蜃気楼のように消えていく、こういうことを何時まで繰り返していても決して真の幸せにならないと思ったからです。

真の幸せとはいつの時代であっても変わらない不変の幸せであって、仏教の最終目標はそこにあるのです。

自殺した人を救うには

自殺された方にとっては身も心も苦しみながら亡くなっていったのですから、無念の気持ちが残り続けたり、或いは「助けて欲しい」という気持ちが残り続けてしまいます。

また誰にも看取られることなく亡くなったとしたら、後からでも良いですからその方のために手を合わせてあげたり、お線香をあげたりすることで、どれだけ救われることでしょう。

自分亡き後に手を合わせてくれる人が居たらどんなに有難いことでしょうか。

自殺した人を救って差し上げたいと思ったら供養しかありません。

地獄にも上から下まで段階的にありますので、本人の努力次第或いは供養の力によって少しでも上の世界に行けることを願うのです。

光明真言は死者を救う強力な真言です、唱えてみましょう…光明真言で開運を、唱え方と印の結び方

自殺した人の遺品の片付け

自殺された方はいずれも訳ありの方ばかりですが、最後は誰かがお片付けてして差し上げなければいけません。

遺品のお焚き上げ

さて、自殺した人の遺品ですが、選別していたりすると落ち込んで中々進まないですから、あまり考えずに思い切って箱の中に詰めていくのがよろしいかと思います。

高野山真言宗やすらか庵では、こういったお焚き上げ供養の依頼の場合には、お伺いしてお手伝いすることもいたしますし、お家を拝んて差し上げることも可能でございます。悩み、苦しみが少しでも和らぐことが出来ましたら幸いでございます。


お焚き上げの質疑応答エンター