生苦とは
生苦とは釈迦の説く人間としての苦しみである四苦八苦の一つで、生きていること或いは生まれてきたことが苦しみであること。
生きるという事
私達は生きていれば苦しいこともありますが、楽しいこともある訳で、決して生きていること全てが苦しみではないはずなのですが、釈迦によれば生きていることは苦しみと説くのは何故なのでしょうか。
釈迦の苦しみ
釈迦は王子の身であり幼少時より裕福な環境に恵まれていて、妃と子供も居て何一つ不自由の無い生活をしていたはずなのに、こうした生活が苦しみであると悟ったのは、豊かな生活が永遠に続くものではないことを知っていたからなのです。
たとえ一国の国王であって多くの国民から慕われていても、何時何時敵国が襲ってくるか分からないし、信頼している部下が急に裏切るようなことが頻繁に起こっていたからなのです。
平穏な日々を過ごしていてもある日突然襲われて皆殺しになるようなこともあるのですから、真の意味での平和など存在しないのです。
釈迦にとってみれば、この世の束の間の幸せなど幻に過ぎないのであって、皆が幻を求めて彷徨うばかりであり、その事実が般若心経に説かれる「色即是空」つまり全ての形あるものには実体が存在しないという大宇宙の真理なのです。
この世に生きている間に、何時かは必ず終わってしまう幸せを追い求め続けるよりも、永遠の旅を続けている魂の本当の幸せを目指す方が遥かに素晴らしいのです。
生きる幸せとは
かといって私達は出家して仏道の修行をする訳でもありませんし、普通に生きて普通に幸せになりたいだけの人間ですから、永遠の幸せなどと言われてもピンとこないのです。
一般の衆生が求める幸せとは何の変哲もない幸せであり、只家族が仲良く健康で過ごせれば良いというぐらいの幸せであり、そのためにあくせくと働いて家庭に尽くし家族を守り、最後に「いい人生だった」と言って死ぬことが出来ればそれで満足なのです。
生まれてくること
釈迦が説くように、生きること自体が苦しみの連続だとしたら、そもそも生まれることが苦しみを持って生まれてきたということになりますので、普通でしたら赤ちゃんが生まれたら「おめでとう」なのですが、苦しみを背負って生まれてくるのですから「生まれて来てお気の毒様」なのです。
しかし悟りを開いた釈迦はそのような意地悪なことを言うはずはありません。
魂の乗り物として人間の肉体を持って生まれたことは仏教の修行が出来るという素晴らしい条件を得たのですからとても有難い事でありますが、しかし苦を持って生まれてきたという事実を事実として正しく捉えて良い生き方をしなさいよ、と説いているのが生苦なのです。
苦を楽に変える方法
楽というものが最初から存在しているのではなくて、苦と同居していて裏表の関係にあり、苦しみを元にして楽が出来るようになっているのです。
高くて険しい山を登ろうとしている一人の人が居て、最初の登り始めの時は意気揚々と歩いていても半分を過ぎるぐらいから険しくなって足腰が痛くなってだんだんと苦痛が増してきます。
しかしその苦痛を乗り越えて頂上にたどり着いた時には大いなる喜びに変わり、十分な満足感が得られますので、苦しみが楽に変わる瞬間なのです。
仏教の修行に於いても一つ一つの段階を登っていくのですから、この山を登ったという達成感が仏教の修行につながれば、大いに役に立つのです。
苦しみを材料にして楽が出来ているのですから、少なくとも私達の人間世界では苦しみを楽に変えていくことで同時に仏教の修行をしていることになるのです。
苦しみを楽に変える方法は、苦しみの原因になっている執着から離れることです。
お金が無くて欲しい物が買えないという事が苦しみになっている人にとって、お金が欲しくて仕方ありませんが、欲しい物が別に今無くてもいいじゃないか、という事になれば苦しみではなくなってしまい、無理してお金を稼ぐ必要が無くなり、今の生活を豊かにすることに使えば楽になります。
仕事がうまくいかなかったらどうしようと心配ばかりしている人にとって、心配することを捨て去り、「どうにかなるさ」という開き直った気持ちになれば物事は案外うまくいくのです。
抜苦与楽
抜苦与楽とは苦しみを取り除いて楽に変えるということですが、悟りを得た如来の仕事が「抜苦与楽」であり、他人の苦しみを取り除いて楽を与えるということなので、苦しみの世界の中で迷える衆生を一人でも多く救おうとされている姿なのです。
私達はついつい自分の利益ばかりを考えてしまい、他人に対して優しく接することが出来なかったり、自分が楽をすることばかり考えていたりで結構、知らないうちに人を傷付けているのです。
かといって他人の幸せのためばかりに走り回っていたら、お人好しと言われるだけで何の徳にもならないかもしれません。
しかし如来とや菩薩と言われる方々は決して見返りを期待することなく、只ひたすらに衆生の救済のために奉仕するだけで、それが如来の喜びであり、そうした功徳が幾らでも無限に出てくるのですから、苦しむことが無いのです。
毘沙門天の居られる天の世界でも利他行を主体とした実践を行っていますので、他の苦しみを取り除く功徳で満ち溢れている世界では、天界を去る時以外の苦しみがありません。