許すとは
許すには許可する、任せる、ゆるめるなど意味がありますが、ここでは犯した過ちに対して責めない、とがめないという意味について説明します。
過ちに気付くこと
仏教では戒律と言って生活の中で守るべき規律があり、真言宗では勤行の中で十善戒と言って十の戒律を守ることを誓います。
十善戒とは仏教に於ける十悪を否定する形にした戒律のことで、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見の十の戒律のことです。
それぞれの大まかな意味は
- 不殺生(ふせっしょう)…故意に生き物を殺さない
- 不偸盗(ふちゅうとう)…他人の物を盗まない
- 不邪淫(ふじゃいん)…不道徳な性行為を行なわない
- 不妄語(ふもうご)…嘘をつかない
- 不綺語(ふきご)…飾り立てた言葉を話さない
- 不悪口(ふあっく)…悪口を言わない
- 不両舌(ふりょうぜつ)…二枚舌を使わない
- 不慳貪(ふけんどん)…貪らない
- 不瞋恚(ふしんに)…怒らない
- 不邪見(ふじゃけん)…間違った見方をしない
これらの戒律を守るように心掛けていることが仏教に於ける正しい生活であり、意識しなくても守るのが当然のことであり、守り続けていますと自然に心が浄化されていきます。
戒律を守るように心掛けていれば何気ない日常生活の中でも多くの過ちを犯していることに気が付きます。
戒律を守ろうとする時に邪魔をする正体が煩悩であり欲望であって、特に俗世間の中では欲望が渦巻いていますので、欲望の渦に巻き込まれてしまった結果として過ちを犯してしまうのです。
過ちに気が付いたら謝ること
過ちに気が付いた時に相手が居る場合にはすぐ謝りましょう。
こういう時にプライドの高い人は相手が悪い、物が悪いなどで人や物のせいにしてしまい、自分の非を認めないことはとても悪い事です。
相手が先に謝ったら自分も謝ろうという考えもまたプライドのせいであって、自分は何時も正しい、間違っていない、自分の方が優れているから謝るような立場ではない、と思うことも罪悪です。
プライドなんて何の役にも立ちませんから、早く捨てることです。
そうすれば気持ちが楽になりますし、今まで拘ってきたものが実はどうでもいいようなことであったことに気が付くはずです。
恨みの気持ちは自分が損する
あの人は何で謝らないんだろう、謝ってくれたら許してあげるのに…
私を騙したあいつは絶対に許さない、一生恨んでやる…
人の気持ちは複雑で、相手の態度によって変わるのが人間関係というものです。
許せないという気持ちは相手に対する怒りと恨みの気持ちに変わっていき、頭の中が怒りと恨みの気持ちに支配されてしまい、悔しい、許せないと思えば思う程頭の中が煮えくり返り、しまいには沸騰してしまいます。
一度沸騰したら冷めるまで時間がかかるのですが、この時間の間は実は何も出来ずにいるのですから、実に勿体ない時間なのです。
忘れる事
どんなに納得できないことであっても、絶対に許せないという被害を受けたとしても、許せないのは仕方ないにしても、私達の生きている時間はとても少ないのですから有効に使わないといけません、そこで一度リセットして忘れてしまうという訓練をして下さい、これは仏教での大切な修行なのです。
怒りや恨みに支配されると正しい判断が出来なくなり、新たな争いを誘発したり、人に対して優しく出来なくなってしまいます。
そして怒りや恨みの感情を持ち続けることにより気が付かないうちに精神的な病になっている人は多く、更には肉体的な苦痛に繋がってしまうのです。
年齢を重ねていくと忘れることが多くなってきますが、忘れるという事は執着しないということであり、執着を消し去ることは悟りへの第一歩なのです。
痴呆症になると穏やかになってくるのは、起こったことをすぐに忘れてしまい、怒りや恨みの感情が無くなってくるからです。
私達の日常は怒ったり悲しんだり辛い思いをしたりの連続です、感情に支配されるようなことに関しては意識的に忘れるという訓練をしてみましょう。
許すということは綺麗に忘れる事であり、忘れることは許すことにもなるのです。