縁なき衆生は度し難し
「縁なき衆生は度し難し」とは全ての衆生を救うという誓いを立てた仏でも仏縁の無い者は救うことが出来ないということ。
仏縁の無い人
仏との御縁である仏縁には自ら求めて得られる御縁と天から与えられる御縁がありますが、どちらの御縁も無いと思う人が世の中にたくさん居ます。
他宗教を信じる人、無宗教の人など多くの人が居る中で、仏教を邪教だと思う人も居ますので、そういった仏縁の無い人達は仏に救ってもらおうという気持ちが全くありませんので、たとえ仏であっても仏縁の無い人は救うことの出来ないのです。
今生ではなくても
たとえ今生では御縁が無くて仏が救うことの出来なかった人であっても、人が生まれ変わり死に変わりをしているのなら、その生まれ変わり死に変わりの長い長い旅の中で何時かは必ず救われるはずだというのが本来の仏の誓いなのです。
今私達が生きている時代に仏が全ての人を救おうとしても、救って欲しくないと思う人や考え方の違いで拒否する人など、要するに御縁の無い人達がたくさん居るのですから、御縁があるまで待つということも仏の仕事なのです。
私達の世界
現在私達が暮らしている世界では紛争や戦争が勃発し、我が国でも事件や事故が絶えることなく、身近な環境である学校や会社では暴力やいじめなどの影響で精神を病む人が続出しています。
大多数の人達が社会的、経済的に苦しい生活を強いられている中で、本来は安らげる環境であるはずの家庭に於ける家族の人間関係が崩壊してしまいますと、信じるものが何も無くなり、神仏は一体本当に居るのだろうかとさえ感じてしまいます。
救いようのない人達
神も仏も無い、自分さえ良ければそれで良いという自己満足の考えは、国家という立場になれば自分の国さえ良ければそれで良いという考え方につながり、その考え方の行きつく先は自らの利益のためには相手の利益を奪うという争いの歴史を繰り返してきました。
仏が衆生を救うということ自体、自らの利益を考えることなく他を利益するということですから、自分の利益しか考えない人は救いようのない人なのです。
私達の周りにも救いようのない人はたくさん居ますが、実は他人から見れば自分も救いようのない人だと思われているのかもしれません。
そういう訳で、ほとんどの人が自分は正しいと思っている訳ですから、仏にとっての衆生は本当に救い難い存在なのかもしれません。
祈りの力
神仏は衆生の救済が主な任務であり、そのためには化身をも使って欲望にまみれた娑婆世界で活動されています。
そして神仏の最大の任務は衆生の幸せを祈ることであり、私達を救済するために日夜祈って居られるのです。
祈りの力は眼には見えない力ですが、宇宙に遍在する力であり、世界を動かしている力です。
私達は普段は中々気が付かないですが、実は眼には見えない大きな力によって動かされているのですから、神仏の力を受けるには、ただ素直に受けるだけで良いのです。
そして私達もまた祈ることによって人に勇気を与えたり、気持ちや思いを届けたりすることが出来るのですから、自分自身が仏に救って頂けるように、そして困っている人が救われ、世界が平和でありますよう祈ることによって、御縁のある人はもちろんの事、御縁の無い人でも何時かは必ず神仏に救われる日が来ますようにと祈るのです。
私達の生きている時間はほんの少ししかありません、周りの状況に振り回されてばかりいますと、ただそれだけで人生が終わってしまいます。
折角人間に生まれてきたのですから、生きている少ない時間の間に与えられた使命を全うしなければ永遠に後悔するのです。