恨みとは

恨みとは

恨みとは他人からされた行いに対して、不満を抱き、憎く思ったり仕返しをしようという気持ちのこと。

倍返し

TBS日曜劇場で2013年7月から放送された堺雅人主演の「半沢直樹」は銀行を舞台にした人気のあるドラマでした。

人事や取引などで起こった様々な問題に対して立ち向かう半沢直樹の姿が人気を呼んで高視聴率をたたき出し、「やられたらやり返す、倍返しだ!!」、「クソ上司め、覚えていやがれ!!」などの言葉が流行語になりました。

我が国では時代劇の頃から成敗もののテレビや映画が人気で、正義の主人公が悪に支配されて困窮するが、最後には正義によって悪が成敗され、ハッピーエンドを迎えるのが定番でした。

こういった成敗ものは、見ているとだんだんと苦しく辛くなってきて息が詰まりますが、最後にスカッとするのが成敗ものの人気の秘訣です。

私達日本人は正義が必ず勝つ、悪を滅ぼすというストーリーが好きなようで

  • 成敗してやる
  • 月に変わってお仕置きよ
  • やられたらやり返す
  • 目には目を歯には歯を

といった「成敗」「お仕置き」「仕返し」「敵討ち」が美徳とされていますが、その裏には悪に対する怒りと恨みの気持ちがあるのです。

仏教と恨み

釈迦の説法

仏教では菩薩が如来になるための守るべき修行として十善戒があって、不殺生不偸盗不邪淫不妄語不綺語不悪口不両舌不慳貪不瞋恚不邪見の十の戒律を守る修行ですが、その中の「不瞋恚」という戒律について見てみましょう。

不瞋恚の「瞋」が怒り「恚」が恨むことです。

「瞋」も「恚」も心の作用で、怒りの心は恨みになり、恨めば恨むほど怒りの炎はメラメラと燃え盛ります。

人を恨むことは仏教では禁じられていますし、ましてや仕返しすることは更にいけないことなのです。

敵討ち

敵討ち

「親の仇だ」と叫んで刀で相手を切る時代劇は少し前までテレビでよく放送されていましたが、主君や親族を殺害した者に対して行う私刑を「敵討ち」(かたきうち)「仇討ち」(あだうち)と言います。

敵討ちの歴史は古く「日本書紀」巻十四雄略紀にある安康天皇3年(456)によれば、「眉輪王の変」では自分の父を殺されたことを知った眉輪王がその敵討ちとして安康天皇を殺したという事件です。

安康天皇は歴史に残る最初に暗殺された天皇になります。

その後も権力闘争などに絡んで数多くの敵討ちが行われて一般化し、江戸時代には江戸幕府によって法制化されるに至ります。

殺人事件の加害者は、原則として幕府や藩が処罰することとなっていたのですが、加害者が行方不明になったり、逃げたなどの理由で処罰できない場合には、被者の関係者に処罰を任せることで、仇討ちが認められたのです。

今の時代のように全国に警察があって連携して犯人を逮捕するような仕組みが無かった時代には、このような仕組みで治安を維持していったのですが、真犯人ではない者が犠牲になったり、人違いで犠牲になるようなこともあり、時には更なる悲劇を生み出すこともありました。

こういった歴史があることで、敵討ちの考え方は民衆に定着して敵討ちが美徳であると考えられるようになつたのです。

丑の刻参り

丑の刻参り

丑の刻参りとは人を不幸にしたり、命を奪ったりする呪いの作法で、丑の刻(午前1時~3時)に白装束と一反の帯、下駄履きで、頭には灯した三本のロウソクを鉄輪に差して被って神社に行き、ご神木に呪う相手に見立てた藁人形を五寸釘で打ち込むことを7日間続ければ相手が死ぬと言われています。

丑の刻参りとは-起源と方法、恨みと仏教

丑の刻参りの根底にあるものは「恨み」です。

  • 結婚すると言いながら、もてあそばれて捨てられた
  • 子供が出来たと分かったとたんに捨てられた
  • 必ず返すと言われて貸したお金を返さない
  • 失敗の責任を押し付けられた
  • 人を不幸にしておきながら幸せそうに暮らしている
  • 私が病気になったのはあの人の責任です
  • 事故の加害者が責任を取らずに遊んで暮らしている

などで「絶対に許さない」という気持ちと「仕返ししてやる」この二つの気持ちを晴らすのが丑の刻参りです。

相手の足を掴んだまま一緒に地獄に堕ちてやるという気持ちがある方向けの方法です。

相手だけ地獄に落として自分だけ助かりたい方法ではありません。

最終的には自分も地獄に堕ちるような行為ですので、おすすめいたしません。

怨念とは

怨念とは「恨み」の気持ちが「念」として残ったもので、恨みの気持ちを持ったまま亡くなった人や無残な殺され方をした人などの「無念の恨み」の気持ちが「念」として残り続けることです。

場合によっては「怨霊」や「悪霊」などになって加害者を苦しめたり、荒れ狂って人から恐れられる存在になります。

亡くなった方の魂が強い恨みのために成仏することなく、さまよっている状態、もしくは地獄に堕ちるようなことがあっても地獄の底から恨み続ける状態かもしれません。

恨みばかりを持つ人の魂は「供養」という方法で仏法に接することにより救われることがあります。

「恨み」の状態は「喉が渇いてカラカラ」のような状態で、何時まで経っても喉が渇き続けるのですから、「一杯の綺麗な水」で救われるのです。

恨みの本質

恨みは持ち続ければストレスになって体調悪化につながり、恨みを晴らしてもまた次の恨みを生み出すのです。

悔しいという気持ち

犯罪として、或いは悪意を持って自分の身内に危害が加えられ、毎日辛い思いをしているが、危害を加えた相手は悪いことをしたと思うこともなく全く普通に暮らしているのが許せない。

こういう時にはただひたすらに「悔しい」と思う気持ちだけが沸き起こるだけで、その悔しい気持ちを鎮めるためには悪人は警察に捕まって刑務所で暮らして欲しいと思うけれど、それが叶わないなら仕返しするしか方法はありません。

ただ仏法的には自業自得の原則が働きますので、いつかは必ず自滅しますので、成敗する必要はなく、恨みというものは気にしなければ無くなってしまいますが、蓄積すればいつかは必ず爆発します。

悔しいという気持ちは勉学や受験の世界ではとても役に立つ気持ちであり、たとえば「あの人の成績に負けて悔しい」という気持ちは努力することに繋がりますが、恨みの気持ちは向上心にはなりません。

恨みの強い世界

私達人間の世界には「恨み」という概念がありますが、この恨みという概念は私達の世界だけにあるものではなくて、私達の世界より下の世界にもあって、下に行けば行くほど強くなるのです。

私達の世界より下の世界とは「阿修羅」「動物界」「餓鬼」「地獄」の四つの世界のことです。

阿修羅の世界

阿修羅

阿修羅は私達人間よりも優れた才能を持っていますが、プライドが高いために常に自分の優位を保つために相手に対して論争を仕掛け、それが戦争になることを繰り返しています。

阿修羅の特徴は

  • 絶対に私の方が優れている
  • あいつの方が劣っているのに偉そうにしているのは許せない
  • 叩きのめしてやる

といった相手に対する強い恨みを持っているのです。

動物界

動物の世界

動物は自分が生きていくだけで精一杯、食うか食われるかの弱肉強食の世界ですから、やられそうになったらやり返す、食われそうになったら食うということを本能的にやらざるを得ません。

恨みの感情は何時までも持っていることなく、すぐに消滅しますが、瞬間的な感情は抑えることが出来ません。

餓鬼界

餓鬼の世界

餓鬼の世界は何時でも空腹ですから何でも口に入れるし、他が見つけた物でも盗ったり奪い合いをしますので、盗られた物に関しては恨みの感情はあるのですが、すぐに忘れてしまい、新たな奪い合いをすることを繰り返します。

地獄界

地獄のイラスト

地獄界の恨みは最も強く、一本のクモの糸が天から降りてきたら、次々と集まってきて殴り合いの大ゲンカ、そして糸を掴んだ者が居れば、下からは引きずり降ろそうと足を引っ張り上からは足で蹴る、相手が苦しんでも傷ついても人を落として自分が糸に掴まろうとする、そういう醜い世界です。

「自分だけ助かってやる」「自分だけ助かるなんてズルい」「お前なんか堕ちろ」そういう世界なのです。

恨みの終着駅は地獄

「恨み」行きの電車に乗れば阿修羅の世界や餓鬼の世界など、いろんな世界を見ることが出来ますが、終着駅は地獄です。

最初からそういう電車に乗らないか、もしくは気が付いたらすぐに降りるべきです。

何時までも乗っていたら終点の地獄に行くだけで、行ってしまったら決して戻ることは出来ません。

恨みの無い世界

私達人間の世界よりも高い天の世界に行けば「恨み」という概念がなくなります。

騙したり騙されたりすることが無いので恨む必要が無いのです。

毘沙門天の世界でもそうですが、相手の幸せのことしか考えないのです。

私達人間界では騙したり騙されたりの世界ですから、そういった俗世間にどっぷりと浸かっていたら恨んだり恨まれたりしないと生きていけません。

しかし私達人間の世界は天の世界に繋がっていますので、天の世界を実現することも出来るのです。

私が俗世間の普通の仕事をしたのは大学を卒業して自動車会社の技術者として3年間働いただけでしたが、その3年間で組織の中で生き残るための人間関係と出世するための世渡り術に何の価値もないと思えたからなのです。

世渡り上手になったとしても何の徳にもならないと気付いたからこそ現在のような救済のための仕事を作り出し、騙したり騙されたりすることのない世界を身近な所から始めていこうと思っています。

騙したり騙されたりすることの無い世界では相手のことを完全に信頼出来ますし、恨みの感情も起こりません。

この世の世界でもそういった事が実現できるのです。

今いる世界から少しだけでも上を見ればよく分かります。

下の方を見れば何と穢れた世界、自分勝手な人々の争っている声やうめき声が聞こえますが、上の世界を見れば穏やかな、安心できる世界が現実にあるのです。

少しでも上を見るようにしましょう。

人として生まれたからには、誰にでも必ず使命があります。

自分の心の中をよく観察すれば必ずその使命が分かります。