忍辱波羅蜜とは

忍辱波羅蜜とは

忍辱波羅蜜とは菩薩が仏になるための六つの修行である六波羅蜜の一つで、外からの侮辱や迫害を耐え忍び、心を動かさず安らかにする行のこと。

忍辱について

忍辱とは苦難、侮辱や他者からの迫害に耐え忍ぶことで、パーリ語ではkhanti 、 サンスクリット語ではKshantiと言い、仏教用語です。

ニンニクとの関係

ニンニク

食材としてのニンニクは仏教用語の忍辱から来たと言われていますが、匂いがきつくて食べたら強壮作用があると言われています。

禅宗の山門の石には昔からよく「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と書かれていますが、葷(くん)とは臭気が強く精力が付く野菜のことで、食することにより臭いで他人に迷惑をかけ、強壮作用があるので心を静める修行に影響を及ぼすことなどで、お酒と共に禁じられてきました。

行者ニンニクは山岳修行をする行者が食べるのでそのような名前が付いたと言われますが、食べるにしても食べないにしても辛い修行を耐え忍ぶということに関係するのではないかと思われます。

修行に耐え忍ぶ

仏教の修行は厳しい戒律を守ったり長い時間座って瞑想修行をしたりで決して楽なことはありません。

釈迦の悟りによればこの世に生まれて生きていることさえ苦痛の連続なのですから、そういった苦しみから解放されるためには更に苦しい修行をしなければいけません。

仏教の目指す安楽の境地にたどり着こうと思ったら、苦難の道を歩むしか他に方法が無いのです。

修行をしている時に次々と沸き起こる煩悩の誘惑に対しても耐える必要があります。

煩悩の誘惑

出家者にとっての修行とは煩悩を無くすことでありますが、出家者と言えども人間である以上、煩悩が勝手に湧いてくるのですが、辛い修行の最中に出てくる煩悩の誘惑に対しては「気にしない事」或いは「静まるまで待つ」などの方法で対処するのです。

湧いてくる煩悩を満足すれば楽になれるのに、敢えて鎮めるのですから耐えることが必要で、耐えることは大切な修行なのです。

耐える修行

釈迦の成道

釈迦在世当時の宗教の修行法と言えば難行苦行が多く、立ったままで横になることの無い修行や、断食をして座禅を続ける修行などの体を痛めつけることで肉体の限界の先に悟りの世界があると考えられていました。

悟りに至る修行はただひたすらに耐える修行でもあったのです。

釈迦が悟りを開く前の段階でも釈迦は難行を続け、何も食べずに瞑想修行を続けていて、体は骨と皮だけになり果てていましたが、ナイランジャナー川で沐浴した後に村娘のスジャータから乳糜の布施を受けて体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想し、ついに悟りを得ることが出来て仏陀になったのです。

難行苦行が悟りに至る道だと信じられていたので、釈迦が村娘のスジャータから乳糜の布施を受けたことで堕落したと思われて付き人達は去って行ったそうです。

釈迦は最終的には難行苦行が何の役にも立たないことを悟りますが、釈迦の修行の道のりの中で無駄なものは一つも無かったはずです。

釈迦も耐える修行を続けていたからこそ、その先の悟りに到達できたのです。

忍辱波羅蜜の実践

仏道の修行は辛くても頑張りましょう、乗り越えれば必ず次なるステージに上がれます、人間関係では原因と結果を見極めたうえで何をされても感情むき出しではなくて、怒りを鎮めて対応しましょう。

怒りを鎮める

私達の日常生活や職場に於いては暴力、暴言などの外からの攻撃、或いは相手に対する激しい攻撃や恨みの気持ちなどが次々と襲ってきますが、耐え忍ぶことは争わないことであり、ある意味無益な争いをしなくて済みますが、耐え忍ぶばかりしていますと病気になったり精神を病んでしまいます。

そして耐え忍ぶことは強者と弱者を作り出し、たとえ悪いことでも強者が行えば悪事がまかり通ってしまいます。

しかし仏教の基本原則では自業自得であり因果応報であれば悪事を行った結果は悪い結果となり、悪事を為した本人がその結果を受けるということになるのです。

ですから真の意味での忍辱とは怒らないこと、更には相手を憐れむことなのです。

本当に先の見える人でしたら、たとえ自分に暴力を振るわれたとしても、感情むき出しになって暴力で応戦することでなく、耐え忍び、怒りの心を持たず、「何と哀れな人だろう」と相手を憐れむのです。

暴力の結果を自分でつけようとしたら、自分が強くなって相手を懲らしめることです。

しかし相手を懲らしめても、その相手は更に強大な仕返しする怨念の心を持ちます。

暴力は暴力を呼び、果てしない戦争になってしまうのです。

お互いの怒りの心の応戦が世界中の戦争の原因なのです。

怒らないこと、相手にしないこと、更には気にしないことです。

怒りの原因の多くは「プライド」にあります。

私が正しい、相手が間違っている、自分の方から謝らない、相手が謝れば許す、などのプライドが邪魔しているのです。

別に謝ったからと言って、何か損するわけではない、私が年上だとかそういうことは関係ない、というのが悟りで、仏教的解決法なのです。

そして早く忘れるということもまた善い解決法なのです。

くよくよしない人は、善いことはいつまでも覚えていて、悪いことはすぐに忘れます。

生活苦の我慢

お金が無い、食べるものが無い、必要な物が買えないなどの生活苦は我慢すればするほど辛くなってきます。

特に今の時代は新型コロナの影響を受けて仕事が無い、収入が減った、自宅待機などの苦境に立たされている人が多く、就職活動もままならず、生きる目的を失いそうです。

お金や物の我慢は心まで病んできますので、何とかしなければいけませんが、こういった世の中の変化の時に自らの価値観を変えてみることは仏教の修行につながるのです。

本来の僧侶が所有するという煩悩を断ち切るために教団から許された持ち物は三衣一鉢のみで、修行中に付ける衣と托鉢に出かける時の鉢だけなのです。

貧乏と言うのは人と比較するから金持ちと貧乏があるのであって、比べる必要はありません。

物は持てば持つほどまだ欲しくなり、人に取られないように必死で守ろうとします。

しかし物は持ったところで何時かは飽きるか不要になるかで、死んだら有無を言わさず片付けられます。

こういう時に思い切って捨て去ると心が軽くなるのです。

捨てきれなかったらお焚き上げ供養を利用すれば良いのです。

食べ物も然りで、少しでも変わったもの、おいしいものを求めても食べて満足したら終わりで、しばらくすればまた次のグルメを考えていて、頭の中は食べ物で埋め尽くされている様子はまるで空腹で食べ物を探し回るブタと大して変わらないのです。

このような喜びは自分一人で独り占めするのではなくて、他人と共有すれば天界の喜びに近くなります。

このような実践をしながら我慢できるものは耐えましょう。

耐えることは立派な修行なのですから。