目次
阿弥陀如来とは
阿弥陀如来は梵名をアミターバ(अमिताभ, Amitābha)、あるいはアミターユス (अमितायुस्, Amitāyus)と言い、大乗仏教の如来です。
極楽浄土
浄土とは悟りを開いた如来が居られる場所であり、悩み苦しみの無い極楽の世界なので、死後に浄土に行けることは永遠の楽を手に入れることであり、私達がいくら修行をしても釈迦如来のように生きたまま仏になれないのであれば、せめて死後に浄土からのお迎えが来てほしいと願う往生極楽の信仰が古より続いています。
阿弥陀如来の浄土は西方の極楽浄土であり、脇侍としての観音菩薩と勢至菩薩を従えて白い雲に乗って死者を迎えに来るという阿弥陀三尊の来迎図が平安時代の浄土信仰の影響で盛んに描かれました。
浄土には東方に薬師如来の瑠璃光浄土があり、西方には阿弥陀如来の極楽浄土があります。
浄土三部経とは
浄土三部経とは「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」の三つの経典のことで、法然を宗祖とする浄土宗や親鸞を宗祖とする浄土真宗は浄土三部経を根本経典としています。
浄土三部経には阿弥陀仏の本願、極楽浄土に関する教えなどが書かれています。
四十八願とは
「仏説無量寿経」には阿弥陀如来の前身である宝蔵菩薩が如来になるために立てた願いのことです。
四十八願の内容
- 無三悪趣の願
- 不更悪趣の願
- 悉皆金色の願
- 無有好醜の願
- 宿命智通の願・令識宿命の願
- 令得天眼の願・天眼智通の願
- 天耳遥聞の願・天耳智通の願
- 他心悉知の願・他心智通の願
- 神足如意の願・神足智通の願
- 不貪計心の願・漏尽智通の願
- 必至滅度の願
- 光明無量の願
- 寿命無量の願
- 声聞無量の願
- 眷属長寿の願
- 離諸不善の願
- 諸仏称名の願・諸仏称揚の願・諸仏称讃の願・諸仏咨嗟の願・往相廻向の願・選択称名願・往相正業
- 念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願
- 至心発願の願・修諸功徳の願・臨終現前の願・現前導生の願・来迎引接の願・至心発願の願
- 至心廻向の願・植諸徳本の願・係念定生の願・不果遂者の願・欲生果遂の願
- 具足諸相の願
- 還相廻向の願・必至補処の願・一生補処の願
- 供養諸仏の願
- 供養如意の願
- 説一切智の願
- 得金剛身の願・那羅延身の願
- 万物厳浄の願・所須延身の願
- 道場樹の願・見道場樹の願
- 得弁才智の願
- 弁才無尽の願・智辯無窮の願
- 国土清浄の願
- 妙香合成の願・宝香合成の願
- 触光柔軟の願
- 聞名得忍の願
- 女人成仏の願・女人往生の願
- 聞名梵行の願・常修梵行の願
- 作礼致敬の願・人天致敬の願
- 衣服随念の願
- 常受快楽の願・受楽無染の願
- 見諸仏土の願
- 聞名具根の願・諸根具足の願
- 聞名得定の願・住定供仏の願
- 聞名生貴の願・生尊貴家の願
- 聞名具徳の願・具足徳本の願
- 聞名見仏の願・住定見仏の願
- 随意聞法の願
- 聞名不退の願・得不退転の願
- 得三法忍の願
四十八願の意味
- 三悪趣である地獄、餓鬼、畜生のものがいなくなる
- 人々や天人が命を終えた後、再び三悪道(地獄、餓鬼、畜生)に戻らない
- 人々や天人が真金色に輝く身になる
- 人々や天人の姿かたちが皆美しいものとなる
- 人々や天人が、宿命通(しゅくみょうつう)を得て、百千億那由他の諸劫の事まで知り尽くすことが出来る
- 人々や天人が、天眼通(てんげんつう)を得て、数限りない諸仏の国土を自由自在に見通すことが出来る
- 人々や天人が、天耳通(てんにつう)を得て、数限りない諸仏の説法を聞き取り、全てを記憶することができる
- 人々や天人が、他心通(たしんつう)を得て、数限りない諸仏国土の人々の心を自在に見抜き知り尽くすことができる
- 人々や天人が、神足通(じんそくつう)を得て、数限りない諸仏の国土をまたたく間にとびまわることができる
- 人々や天人が、〈漏尽通(ろじんつう)を得て、いろいろと思いはからい、その身に執着するようなことがない
- 人々や天人が、正定聚(しょうじょうじゅ)にはいり、必ず悟りを得ることができる
- 私の光明に限りがなく、百千億那由他の諸仏の国を照らすことができる
- 私の寿命に限りがなく、百千億那由他劫までの長さでつきるようなことがない
- 私の国の声聞の数に限りがなく、三千大千世界の声聞・縁覚たちが、百千劫のあいだ力をあわせて計算し、その数を数え尽くせるようなことがない
- 人々や天人の寿命を限りないものにさせる
- 人々や天人に、不善のものがいなく、またその名さえない
- あらゆる世界の数限りない諸仏たちが、ことごとく私の名をほめたたえる
- 全ての人々が心から信じて私の国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、私は決して悟りを開きません
- あらゆる人たちが菩提心を起こし、もろもろの善根功徳を修め、ひとすじに私の国に生まれたいと願うなら、その人々の臨終の時、私は多くの聖者たちと、その人の前に現れる
- あらゆる人たちが私の名を聞いて、私の国におもいをよせ念仏をとなえる功を積んで、ひたすらに私の国へ生まれたいと願うなら、私はその願いを果たし遂げさせる
- 人々や天人が、一人残らず三十二相の仏の姿をまどかに備えられる
- 他の国の菩薩達が、私の浄土に生まれたなら、必ず菩薩最高の位に入る
- 私の国の菩薩が、仏の威神力をたまわり、諸仏を供養するにあたって、極めて短い時間のうちに、無数の国々にいたりつけるようにしてやることが出来る
- 国中の菩薩が、諸仏の前で、供養の徳をあらわすにあたり、欲しいと思う供養の品を思いのままに得られる
- 国中の菩薩が、あらゆる智慧をもって思いのままにに説法することが出来る
- 国中の菩薩が、那羅延のような、どんなことにも負けない堅固な身を得ることが出来る
- 国中の人々や天人が用いる一切のものが、みな清らかでうるわしく光輝き、その形は特にすぐれ、微妙であることはとても計り知れないぐらいにする
- 国中の菩薩で、たとえ功徳の少ない者であっても、高さ四百万里の光り輝く菩提樹を見ることができる
- 国中の菩薩が、経法をいただいて読誦し、これを人々に説き述べ、さわりのない弁才智慧を得られる
- 国中の菩薩が、智慧や弁才に限りがない
- 国土が清らかで、光明が十方無量の世界を照らすことが、ちょうど磨き上げた鏡に姿をうつすようにする
- 大地より虚空にいたるまで、宮殿、楼閣、池水や川の流れ、樹木や花など、私の国のすべてのものがみな無数の宝と無量の香りからでき、その美しい荘厳は世にこえてすぐれ、ゆかしい香りは方世界に薫じわたり、これを聞くものはみな仏道にいそしむ
- 十方世界のあらゆる衆生で、私の光明に照らされこれを身に触れるものは、身も心もやわらいで、人天のそれよりもはるかにこえすぐれる
- 十方世界のあらゆる衆生が、我が名を聞いて、涅槃を得るに間違いのない身となり、もろもろの深い智慧をえることができる
- あらゆる世界の女性達が、我が名を聞いて、喜び信じ、菩提心を発し、我が身を恥じらう思いになるならばいのちの終わってのちは、再びもとの身にはならない
- あらゆる世界の菩薩達が、我が名を聞いて、いのちが終わってから、常に自利利他の菩薩の行を修め、仏道をなし遂げて仏になることが出来る
- あらゆる世界の人々が我が名を聞いて、五体を地になげうつ最高の作法で恭しく礼拝し、よろこび信じて菩薩の行を修すならば、天人たちはこれを敬い慕う
- 国中の人々や天人が衣服が欲しいと思ったら、それが直ちに現れ、仏の意にかなった尊い衣服が自然と身につけられる
- 国中の人々や天人が受ける楽しみが、煩悩の全くなくなった聖者のようになる
- 国中の菩薩が、意のおもむくままに十方の数限りない清らかなる浄土を見たいと思うなら、いつでも願いに応じて、磨き上げられた鏡に顔が映し出されるように、宝樹の中にそれを見ることができる
- 他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、仏のさとりを得るまで、体が完全で不自由でないようできる
- 他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、みなことごとく煩悩のけがれと束縛とを離れた清らかな三昧の境地をえることでしょう。この三昧にはいると、思いが発れば直ちに無数の諸仏を供養することが出来、その禅定の心を少しも乱すことがない
- 他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、いのちがおわってから尊い家に生まれられる
- 他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、よろこびいさんで菩薩の行を励み、いろいろな功徳を身につけることが出来る
- 他方の国土の菩薩達は、我が名を聞いて、みなことごとく普等三昧の境地を得るでしょう。この三昧にはいって仏になるまで、常に一切の諸仏たちを見ることができる
- 国土の菩薩達は、その希望にしたがい、聞きたいと思う法を自然に聞くことが出来る
- 他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、直ちに不退の位にいたることができる
- 他方の国土の菩薩達が、我が名を聞いて、直ちに第一、第二、第三法忍と位にいたることが出来ず、諸仏の法をえたうえに、不退転の身になることが出来る
浄土宗と念仏
浄土宗では「南無阿弥陀仏」の念仏を尊重しますが、それは「仏説無量寿経」の第十八願に「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」の記載があり、「私が仏になるとき、全ての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、十回でも念仏して、もし私の国に生まれることができないなら、私は決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」この部分を法然は最も重要だと考え、ただひたすらに念仏することをすすめたのです。
十三仏として
十三仏とは人の死後33年間までを案内する仏のことで、死後の世界の裁判官として中国で古来より信仰されていた十王の思想が発展したと言われています。
阿弥陀如来は人の死後三回忌を案内する仏になります。
- [十三仏] [裁判官] [法事] [命日から]
- 不動明王 秦広王(しんこうおう) 初七日 7日目、6日後
- 釈迦如来 初江王(しょこうおう) 二七日 14日目、13日後
- 文殊菩薩 宋帝王(そうていおう) 三七日 21日目、20日後
- 普賢菩薩 五官王( ごかんおう) 四七日 28日目、27日後
- 地蔵菩薩 閻魔王 (えんまおう) 五七日 35日目、34日後
- 弥勒菩薩 変成王 (へんじょうおう) 六七日 42日目、41日後
- 薬師如来 泰山王( たいざんおう) 七七日 49日目、48日後
- 観音菩薩 平等王 (びょうどうおう) 百か日 100日目、99日後
- 勢至菩薩 都市王 (としおう) 一周忌 2年目、1年後
- 阿弥陀如来 五道転輪王(ごどうてんりん) 三回忌 3年目、2年後
- 阿閦如来 蓮華王 (れんげおう) 七回忌 7年目、6年後
- 大日如来 祇園王 (ぎおんおう) 十三回忌 13年目、12年後
- 虚空蔵菩薩 法界王( ほうかいおう) 三十三回忌 33年目、32年後
阿弥陀如来の印と真言
阿弥陀如来の印と真言について説明させて頂きます。
阿弥陀如来の印
阿弥陀如来の印は弥陀定印か来迎印がよく使われています。江戸時代に考案されたとされる九品来迎印についても説明致します。
弥陀定印(法界定印)
左手の上に右手を重ね、両手の親指の先を合わせて他の指は伸ばします、親指と人差し指で輪を作ることもあります。
来迎印
右手を上げて左手を下げてともに手の平を前に向け、それぞれの手の親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作ります。
九品来迎印
阿弥陀如来が死者を迎えに来る時に、その人の能力や信心の度合いによって九つの段階に分けて、それを印で表すそうです。
あの人の行いが上品だとか下品だとかの言葉は、ここから来ているとのことです。
しかし人の行いに応じて迎え方が違うということは、行く世界が違うということであり、少なくとも極悪非道の人は極楽浄土行きが無理でしょうけれど、四十八の請願の中には「三悪趣である地獄、餓鬼、畜生のものがいなくなる」ということが入っていますので、阿弥陀如来にすがるしか他に方法はありません。
どんな人に対しても救いの手を差し伸べて下さるのが阿弥陀如来なのです。
阿弥陀如来の真言
阿弥陀如来の真言には小咒と大咒があります。
小咒
最も一般的に唱えられる真言です。
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
大咒
阿弥陀如来根本陀羅尼とも言います。
「ノウボウ・アラタンノウトラヤーヤ・ノウマク・アリヤーミターバーヤ・タタギャタヤアラカテイ・サンミャクサンボダヤー・タニャタ・オン・アミリテイ・アミリトウドバンベイ・アミリタサンバンベイ・アミリタギャラベイ・アミリタシッテイ・アミリタテイセイ・アミリタビキランデイ・アミリタビキランダギャミネイ・アミリタギャギャノウキチキャレイ・アミリタドンドビソワレイ・サラバアラタサダニエイ・サラバキャラマキレイシャキシャヨウキャレイ・ソワカ」