中陰、満中陰とは
「中陰」とは私達の魂が死後に肉体を離れてから彼岸の世界にたどり着く、或いは生まれ変わるまでの期間のことで、満中陰とは中院の期間が終わったことを意味します。
四有との関係
四有とは迷いの世界を輪廻転生する衆生が輪廻転生のサイクルの中で今どの状態にあるのかを示した言葉で、中有、生有、本有、死有の四つの状態のことです。
- 「中有」とは死んでから次の生を受けるまでの間の期間
- 「生有」とは生を受ける瞬間
- 「本有」とは生有から死有までの期間
- 「死有」とは死ぬ時の瞬間のこと
中有と中陰
中有とは死んでから次の生を受けるまでの間の期間で、「中陰」とも言われ、その期間は七日、四十九日などと言われますが、決まっていないとも言われますし、中有は無いとも言われます。
中有の間は小さいながらも次の生まれ合わせの特徴を持っているとも言われ、香りのみを食べていることから食香(じきこう)とも呼ばれます。
亡くなった方のお通夜の時に枕元の線香を絶やさないようにと言われますが、香のみを食べ物として中有の世界を進んでいくので、お腹が空くようなことが無いようにとの配慮からなのです。
満中陰とは
「中陰」と「中有」の意味は同じで、中陰の期間が終了したことを「満中陰」と言います。
満中陰になれば彼岸に渡り終えたということで、ご先祖様の仲間入りをされたと解釈し、故人の遺骨をお墓に納骨するのです。
彼岸との関係
彼岸とは私達の世界と先祖の世界の間を流れる三途の川のこちら側の岸である「此岸」(しがん)から続いている橋を渡り終えた対岸のことで、「彼岸」と言えばご先祖様の世界のことになります。
我が国では仏教の輪廻転生という考えよりも、先祖の世界に行くという考えの方が自然に受け入れられていて、毎年お盆や彼岸になれば墓や家に帰って来るという信仰が続けられているのです。
中陰の期間はこの世でもあの世でもない世界の長い長い橋を渡り続ける訳ですから、途中で迷わぬようにということで十三仏の仏が一週間毎に案内してくれるので、十三仏に対しては「どうか故人を迷わぬように案内して下さい」ということで毎週親族などが集まって「おかんき」と言われる読経を行うのです。
中陰の期間の心得
中陰の期間は亡き人が彼岸の世界に到達するまでの期間ですから、故人が迷わぬように応援して差し上げましょう。
中陰の祭壇
中陰の祭壇は亡き人のために特別に作られた簡易祭壇であり、使う仏具も含めて同じものを何回も使うようなことは致しません。
祭壇には亡き人の遺骨、遺影、白木の位牌、花、お供物などをお供えし、お茶湯、お膳などは毎日取り換えて、地方によっては白玉粉で練った団子をお供えします。
家の中の祭壇に遺骨がお祀りされることは中陰の期間だけであり、四十九日が済みましたらお墓に納骨しますので、しばらくの間は家でゆっくりして頂きましょう。
亡き人にとっては例えば病院で長い間入院したいたような場合には、家に帰りたくて仕方なかったことだと思いますので、我が家と言うものは良いもので御座います、ゆっくりくつろいでもらいましょう。
お勤めの仕方
亡き人は三途の川を渡っている間は十三仏の案内が必要だそうです。
事故の裁判がもう始まっているとも言われ、四十九日までの十三仏と裁判官の関係は
- [十三仏] [裁判官] [法事] [命日から]
- 不動明王 秦広王(しんこうおう) 初七日 7日目、6日後
- 釈迦如来 初江王(しょこうおう) 二七日 14日目、13日後
- 文殊菩薩 宋帝王(そうていおう) 三七日 21日目、20日後
- 普賢菩薩 五官王( ごかんおう) 四七日 28日目、27日後
- 地蔵菩薩 閻魔王 (えんまおう) 五七日 35日目、34日後
- 弥勒菩薩 変成王 (へんじょうおう) 六七日 42日目、41日後
- 薬師如来 泰山王( たいざんおう) 七七日 49日目、48日後
祭壇の前に座ってお勤めの読経をして差し上げれば良い供養になります。
真言宗のお経で御座います、他の宗派の方はご自分に合った宗派の読経をして下さい。
満中陰の時に必要な事
満中陰の法事の時にはお墓がある場合には、法事の後に納骨に向かいますので、予め石材店に連絡してお墓の蓋を開けてもらったり、納骨のサポートをしてもらいましょう。
中陰の期間の内に忘れずに準備しておくものとして「本位牌」があります。
本位牌とは塗りの本格的な位牌のことで、中陰の期間の内に準備しておき、満中陰の法要の時に僧侶に開眼供養してもらいます。
彼岸浄土と輪廻転生は矛盾しているようにおもいます、私には理解できません、疑問を解消出来るでしょうか?
我が国の仏教は釈迦の説いた純粋な仏教では無く、土着の信仰を取り込んでいますので、死後の世界観や供養など、仏教では説明できないことが多々あります。輪廻転生にしても仏教以前の世界観が入っています。浄土は本来、輪廻から解脱した世界の事ですが、凡夫が簡単に行ける世界ではありません。簡単には行けないからこそ救ってほしいというのが我が国における大衆的な仏教の特徴ですが、最終的には死後の世界は自分が信じていた世界に行くと言われており、その通りになるかどうかは信仰心と日頃の行いによると思います。いずれにしても死後の世界などは考えて分かるものではなくて、信じるものか、或いは修行の結果として体験するかのどちらかになると思います。
清野さま、ご丁寧なご回答有り難うございます。
釈然とはしませんが、何となく納得いたしました、有り難うございました。