目次
戒名の本来の意味
仏門に入った者が戒律を守り仏道に精進することを誓い、釈迦の弟子に認められたという事で頂く名前が戒名で、誰もが平等に無条件に与えられるものでした。
我が国での戒名
我が国は世界に誇る仏教徒が多い国ですが、開祖である釈迦の悟りを目指して修行する仏教ではなくて「葬式仏教」と言われるように、亡き人の供養のための仏教と言う色彩が強く、僧侶が家に来たら隣近所の人から誰かが死んだと思われるイメージになっているのです。
戒名もまた仏門に入って悟りを目指して修行するための新たな名前ではなくて、死後に墓に刻んで後世にまで残す見栄を張るための道具として利用されているという実情があるのです。
本来の戒名は
仏教では仏門に入るには師僧と言われる仏の世界へと導いてくれる師匠が必要で、釈迦の時代には自ら宣言することで師僧が居なくても仏門に入ることが出来たのですが、悟りの内容は「師子相伝」と言いまして師匠から弟子に正しく伝えていくべきものという考えのもとに師僧が入門希望者に対して仏弟子になる資質があるかどうかを見極めた上で、許可した者に対して儀式を行い、仏弟子になった証としての戒名を授けるのです。
釈迦が説いた仏法は弟子から弟子へと伝えられ、世界中に広がり、何百世代にわたる弟子達の努力によって今の私達に繋がっていると思えば、実に有難い限りであり、私達が今の時代に人間社会に生まれることが出来て、尚且つ仏法に巡り合うことが出来たというだけで、あり得ない程の素晴らしいチャンスを頂いたということで、釈迦の流れをくむ仏門に入って、釈迦の弟子としての名前を頂いたということは素晴らしい事なのです。
本来の出家は家庭を捨てて何もかも捨てて仏門に入り、戒律を守り、修行の日々を送ることなのです。
仏道の修行のチャンスを頂くという意味では死んでから仏門に入っても遅いのであって、生きている時に修行するからこそ意味があるのです。
しかしながら生きている時には皆それぞれに現実の生活があって、様々な誘惑もあるような中で仏教の厳しい戒律を守ることさえ中々出来ないのだから、人が亡くなった時には一切の欲望が消滅した状態で、この時こそが悟りのチャンスだという考えから死後に頂く戒名が主流になったのです。
本来の戒名の文字数は2文字
戒名は師僧から弟子に与えられるもので、法を受け継ぐという意味で「法名」とも言われます。
釈迦伝来の法の流れが師僧から弟子に伝わったということで正しい法流が伝わったということで、出家者の場合には師僧の法名の一字を入れた名前にするのが通例です。
私の法名は「徹昭」ですが師僧は「徹真」そのまた師僧は「徹定」というようにつながっていることで、師僧から受け継いだ法の伝統の大きな流れを感じることが出来るのです。
寺院が檀家さんに付ける戒名も本来は2文字であり、一般的には生前中の名前から一文字を入れた名前にすることが多く、たとえば「正志」(まさし)さんでしたら「正照」(せいしょう→正しく照らす)のように何らかの仏法に関連した意味を持たせて、流れるようで情景が浮かぶような、詩的な文字にしています。
戒名に使われる実際の文字は経典に記載されている文字からの抜粋が多く「妙」「法」「覚」「蓮」「華」などのお経の中で使われている文字が有難いのでよく使われるのです。
戒名の構成
寺院が死者に授ける時の戒名は2文字ではありません、次のように構成されています。
戒名は浄土真宗では法名、日蓮宗では法号とも言い、戒名の基本は院号、道号、戒名、位号であって、宗派によって梵字が付いたり文字の内容が変わったりします。
院号とは
もともと天皇が退位した後に付けられた名前のことでしたが、後に身分の高い人に付けられるようになりました。
院号より高貴な尊称として院殿号もあります。
実際の寺院には固有の名称として寺の位置付けを表すための〇〇山□□院△△寺▲▲庵のような呼び方をするのですが、亡き人に対して架空のお寺である◇◇院というお寺を修行の場として与えましょうというのが院号なのです。
院号は寺院に対して貢献した人のみに与えられる権利であり、誰でもが院号を得られる訳ではありませんし、権利があってもお金が無ければ院号は貰えません。
寺院としても無制限に出せば院号の価値が下がることになり、控えているようですが、現実的には寺院としての大切な運営のための収入源であることも事実です。
道号とは
戒名の上につけられる名前のことで、元々は仏道を習得した高僧に付けられる名前のことです。
実際には亡き人が生きていた時の生き様を道号で表します。
戒名
本来はこの2文字が戒名の意味に相当する部分。俗名(生前)の名前から一字とって入れることが多く、この部分が必ず入っているのが戒名です。
位号
戒名の下につけられる位の意味で昔は階級を表していました。性別、年齢なども位号で表されます。
位号の種類としては
- 居士(こじ)/大姉(だいし)…成人男性/成人女性。信士・信女より寺院に貢献した人
- 信士(しんじ)/信女(しんにょ)…成人男性/成人女性
- 童子(どうじ)/童女(どうにょ)…15歳未満の子供
- 孩児(がいじ)/孩女(がいにょ)…幼児
- 嬰児(えいじ)/嬰女(えいにょ)…乳児
- 水子(すいじ)…死産児
などがあります。
戒名のランクとは
寺院が死者に対して授ける戒名には次のようなランクがあり、実際はその寺院に対する貢献度や社会的な貢献度の高い人に対して、寺院からの表彰的な要素があります。
仏法興隆のため
寺院に対して多額の寄付をしたり諸堂の建立に貢献した人は、仏法の興隆に尽くしたと認められ、多くの功徳を積んだことを寺院が認めた証としての貢献者に対する栄誉賞が戒名のランクということになっていて、貢献の度合いに応じて様々なランクがあるのです。
檀那(檀家)という言葉は元々サンスクリット語でdānaと言って「布施」を意味することから、檀家とは出家した僧侶や寺院に対して布施をする在家の信者という意味なのです。
檀家は元々寺院と僧侶を支える者ということであり、僧侶は仏法の興隆と檀家の安泰、先祖の供養のために祈ることを専業としているので、僧侶の祈願によって恩恵を受けたいと願う者が競って布施をするという姿が本来あるべき姿なのです。
居士・信士は男の人で、大姉・信女は女の人の戒名になります。
- 院殿居士、院殿大姉(殿様のように身分の高い人)
- 院居士、院大姉(出家してお寺を持たせる)
- 居士、大姉(出家修行者)
- 信士、信女(在家の信者)
寺院からすれば多額の布施をした者に対しては特別扱いするということなのですが、勲章みたいなものに何の価値も認めないという人から見れば、只の飾りに過ぎません。
戒名とお布施
一般的に戒名のランクが低ければ文字数が少なく、戒名のランクが上がれば文字数も増えていきます。
戒名に対するお布施はそれぞれの寺院で決められていて、一般的な決まりはありませんが、大体の目安としては
- ○○○○信士…金銭的に余裕のない人向けで5万円程度、「お気持ち」ということもあり
- ○○○○居士…社会的立場の高い人向けで30万円程度
- ○○○○○○○居士…社会的立場が相当に高い人向けで50万円以上
戒名に対するお布施の相場の平均は都市部と地方では差がありますし、寺院の規模によっても違います。
戒名料が高いと思ってその理由を聞いてみたら「格式が高いから」という返事が返ってくることがありますが、本来の仏教で神仏を祀るという意味では寺院の格式など関係ない事ではありますが、天皇家に近い、或いは将軍の菩提寺などは国家の庇護を得て国家のために祈った歴史があるということが信頼の証であるとも言えます。
寺院も後継者が居なくて廃寺になることがあるのですから、廃寺になるような寺院で永代供養してもらうよりは、格式が高い故に伝統を守り続けて廃寺になるような心配のない寺院で供養してもらうための安心料とも言えるのです。
地方の山間部などで檀家さんの生活水準が低いような所は寺院に対するお布施は低い傾向があり、都市部で人口が密集して新規の檀家が増えているような所はお布施が高い傾向があります。
戒名と位牌の大きさの関係
位牌の大きさは昔ながらの尺寸法で表されていて、現代では3寸~7寸の位牌が流通しています。
たとえば3寸の位牌は高さが約9cmということではなくて、戒名が彫ってある札の部分の大きさが約9cmということであり、総高さとしては約約15cmあります。
立派な戒名を頂いたら位牌も奮発して大きい物を揃えるというのが人情で、戒名と位牌を人に見せるものだと思えば猶更大きくなる傾向があります。
徳川家の菩提寺ともなれば戒名も立派ですが豪華で巨大な位牌がお祀りされています。
江戸幕府初代将軍の徳川家康の戒名は 「東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」で19文字あり、神を表す神号の「東照大権現」と殿様の証である「安国院殿」が入っているが特徴です。
因みに家康の故郷である愛知県岡崎市の大樹寺には歴代将軍と同じ背の高さの位牌が祀られていて、家康の位牌は159cmですから驚きです。
地方では親の位牌より大きい物を作ってはいけないという暗黙のルールがあって、同じ高さの位牌が並んでいるものですが、一つだけ大きい位牌がありますと、偉そうにしていると思われるものです。
またお墓や位牌についても本家が一番大きくて、分家の者は本家よりも小さくするといったしきたりがあるのも事実です。
都会のマンション暮らしの人にとっては、スペースが無いという理由で、仏壇も位牌も小さい物を選ぶ傾向にあります。
戒名と家柄
昔はお見合いや結婚の話が具体的になってきたら「聞き合わせ」と言って身元調査のことですが、親が相手方の家の近所に出かけて、相手方の評判を聞きに行くという習慣があり、極端に評判が悪ければ破談になるようなこともありましたが、この「聞き合わせ」では相手のお墓も見に行ってお墓の様子や先祖の戒名なども見るようなことも普通に行われていました。
要するに立派な戒名の付いたご先祖様が並んでいれば良い家柄であるという判断に戒名が使われたのですから、少しぐらい貧しくても立派な戒名をもらって、良い家柄であることを守ろうとするのです。
戒名の本来の目的はこのような使われ方をすることではありませんが、自分の息子や娘には少しでも良い学校に行って欲しい、結婚する時には善い家柄の相手と結婚して欲しいと望むことはある意味親心(おやごころ)であり、それだけ家柄や戒名というものが生活の中に深く関わっている証拠でもあるのです。
戒名と価値観
最近では「戒名なんか必要ない」と言い切る人も多く居て、価値観が問われるようになってきましたが、戒名についての正しい説明と仏法の布教を怠ってきた結果とも言えるのです。
必要ない物は滅びる
私達の生活にどうしても必要な物は何時までもあり続けますが、必要ない物や時代の流れと共に必要性の無くなった物に関しては無くなっていくのが世の常です。
一昔前の時代には「思い出に残る良い葬儀」とは規模が大きくて僧侶もたくさん呼び、立派な戒名が付いていて、祭壇も立派で多くの花輪が並び、参列者の多いことでした。
故人の徳をたたえ、立派な人であったことの証として立派な戒名を頂くことは故人に対する家族の者の気持ちの表れでもあったのです。
もちろん規模が大きければそれなりの費用がかかりますが、一度しかない人生最後のセレモニーだと思えば最高の形にしてあげたいと思うのです。
しかし今の時代になって特に都会では葬儀は家族葬か直葬で僧侶を呼ぶことなく身内の者だけで済ませ、お葬式も以後の法事もしなければ、余計なお金を使うことや付き合いなどの面倒なことが無いし、戒名が無くても実際の生活には何も困ることがないということに気が付いているのです。
戒名の必要性
戒名以前に若い人の宗教離れ、お寺離れも進んでいるのですが「私も是非戒名が欲しい」と思わせるような生活に必要な戒名ではなくて、お寺が儲けるためのものと思われていることが問題なのです。
生活に必要なということは、生活に役に立つという事です。
位牌は亡き人と心の交流をするための依り代であり、手を合わせるだけで不思議と毎日心が安らぐ、亡き人に守ってもらって安心できる、という事を真剣に伝えないといけないのです。
家族というものは生きている者同士が互いにコミュニケーションすることで絆が深まり、困った時は助け合いするものですが、亡き人も家族の一員であり、私達を守ってくれている大きな力になっているのです。
そんな力は必要ないと言っても普通に生活が出来るのですが、亡き人の力を感じる人は一人で居ても決して一人ではないと思えるのです。
こういった考え方を後押しするのが寺院の役目であり、戒名・法名を与えることによって仏門に入って神仏と縁を結ぶ人を増やすことは僧侶としての大切な務めなのです。
神仏や先祖とのお付き合いを始めるための戒名です。
可能であれば生きている時に仏門に入って釈迦の弟子として魂を向上させるための人生を歩んでみて下さい。
目には見えない世界へとつながる真実の扉を開いてみませんか?