目次
修行とは
修行とは現実生活で湧き出てくる欲望から離れて執着心を無くし、欲望に動じない心を作ると共に、戒律を守ることで心を浄化し、仏法を学び瞑想などを行うことで心の状態を高めていくことです。
何でも修行
私達の日常生活の中には修行といえるものがたくさんあって、起こった問題や試練を修行だと思えば案外乗り越えられるものです。
仏教には三毒と言って、私達が克服すべき三つの大きな煩悩のことで、貪瞋痴(とんじんち)つまり、
があり、これらの三毒に付随する煩悩は他との衝突や対立を招きます。
よくある問題として
- 騙された
- お金をとられた
- 些細なことで喧嘩した
- 人間関係が嫌だ
- 判断を間違えた
などの問題が毎日たくさん出てくる訳で、気にしなければ済むことを気にしたり、怒りの感情を抑えきれなかったりなどで、もう少し大人の対応と言いますか、仏の対応が出来れば対立することが無かったようなことがたくさんあるのです。
この仏の対応が修行なのであって、「気にしない」「怒らない」は立派な修行なのです。
六道の旅の途中
私達の魂は長い旅を続けていて、六道と言われる世界を上がったり下がったりの繰り返し、何処の世界でも普通に生きているだけなら堕ちていくばかりの定めなのです。
しかし一度低い世界に堕ちてしまうと苦しみばかりの世界なので、苦しむだけで終わってしまい、魂のレベルはどんどん低くなるばかりです。
六道の輪廻転生の理論では、私達は天界に行けるかもしれませんし、地獄に堕ちるかもしれませんが、死後に何処の世界に行くのかは自分自身はおろか、誰にも分かることではありません。
只一つ言えることは、自分がこの世の世界で生きている間に成した行いの結果として行先が決まるということだけです。
私達が成した行いは善なる行いと悪なる行いの二つに分かれ、修行をすることによって悪なる行いを断ち、善なる行いを増やしていくのです。
修行は何故必要か
私達の魂は生まれ変わり死に変わりを延々と繰り返し、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天界の六道と言われる世界の中を彷徨っているのです。
この六道は全て苦しみの世界で、最も苦しみの多い地獄の世界は四六時中苦しみの連続で、たとえ苦しみのない天界であっても、寿命が尽きるという苦しみがあるのです。
幸せな天界に生まれたとしても、寿命が尽きてしまったら、もっと下の世界に生まれ変わる可能性もあり、こういったことが苦しみの原因になるのです。
さて、この苦しみの世界である六道から抜け出すには、解脱と言いまして、悟りを得ることが条件で、解脱とは輪廻転生の世界から脱するという意味であり、堕ちる事の無い仏の世界への道が約束されるのです。
しかし、この解脱ということが大変に困難なことであり、お釈迦様は人間として生きながらに仏になったのですが、何もかも捨て去って修行に専念されたからこそ仏になったのであって、それ以前にも以降にもお釈迦様に相当する人が出てこないということは、修行が如何に困難なものであるかということを物語っているのです。
お釈迦様の難行苦行は創造を絶するもので、悟りの前には骨と皮だけになっていて、弟子たちは死んだものと思っていたそうです。
さらにお釈迦様には、遥か彼方の前世より修行を続けた来た魂があったからこそ、やっとこの世で最終的に仏になったと言われていますので、それだけの素養がある人なんて、いないものなのです。
釈迦に成れないと分かったら
日本の仏教で法然と親鸞の教えは浄土宗、浄土真宗として広まっていますが、元々は「無量寿経」に説かれているように、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩として修行していたときに仏になる条件として四十八の誓願を立てたということに始まります。
誓願とは、願い事のことで、願い事が叶わない限りは自分は仏にならないという誓いなのです。
その四十八の誓願の内、十八番目の誓願が、「信心を起こし、浄土へ生まれようとして念仏する者は、必ずそれを実現させよう」という願いがあるからこそ、念仏すれば必ず極楽浄土に行ける訳で、私達がいくらがんばっても悟りを得ることは困難なために、阿弥陀如来の力に頼ろうとしているのです。
私達は自分の力だけでは悟りをえることが出来ないようなとても小さな存在なので、誰かに頼らざるを得ないけれど、それでも念仏をしたりの自分ですることは必ずあるのです。何もしないで悟りを得るということは決してありません。
毘沙門天の役割
悟りが開けないと分かったら六道の輪廻転生の最高の天界か、その下の人間界を目指すしかありません。
天界では寿命が長いですが、享楽を受けるばかりで功徳を減らしてしまうことが多いので、出来ましたら人間界を目指すのが良い方法なのです。
私達の祖先は遥か昔より人が死んだら50年後或いは100年後にまたその家に生まれ変わって来るという土着の信仰を持ち続けていました。
だからこそ先祖を敬い、大切にしてまた必ず生まれ変わって来ることを願い、家の繁栄を願ってきたのです。
天界の住人で私達の世界とのパイプ役を果たしているのが毘沙門天です。
毘沙門天は仏法を護るという役割だけではなく、妻の吉祥天女、子の善膩師童子と共に家族の形態をとり、人としての在り方や、家族としての在り方を説くという大きな役割があり、私達人間界のすぐ近くで活躍しているとても身近な存在なのです。
ある意味私達の日常生活のいろんな場面にとても身近に居られる訳ですから、高尚な悟りを説くのではなくて、日常生活の困りごとなどに仏法で対応してくれるという、とても有難い存在なのです。
悟りの段階
悟りにも段階というものがあり、弘法大師空海はその著作「秘蔵宝鑰」で悟りの段階を10に分けています。最初の段階である第一住心の異生羝羊心(いしょうていようしん)・・・雄羊のように性と欲と食のみに囚われ、本能の赴くままに生きている動物的心から始まって第十住心の秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)・・・真理の世界と一体となった絶対的な境地まであり、修行していくことによって第一住心から順に心を昇華させていくのです。
- 第一住心 異生羝羊心 ・本能的な心
- 第二住心 愚童持斎住心・倫理性を持った心
- 第三住心 嬰童無畏住心・宗教心を持つ
- 第四住心 唯蘊無我住心・無我の境地
- 第五住心 抜業因種住心・自利的な心
- 第六住心 他縁大乗住心・利他的な心
- 第七住心 覚心不生住心・空の境地
- 第八住心 一通無為住心・普遍的生命観
- 第九住心 極無自性住心・普遍的価値観
- 第十住心 秘密荘厳住心・絶対観
修行をすることによって私達の心は第一住心から順に少しずつ段階を登っていくのですが、私達の魂は低いレベルの所で留まっていることが多く、いきなり高いレベルの修行は無理です、まずは現状の生活を改善していくことから始まりますので、こういう時に毘沙門天の教えが役に立つのです。
私達が実際の生活の中で困っていることの解決法にしても、仏法に根差した解決法というものが存在するのです。
真の仏法は自分も相手も幸せになる方法です、この方法で幸せを掴むことが出来たら、より高い幸せを求めていけば良いのです。
出家と在家
出家とは家族や自分の家を持たずに出家の戒律を守り修行する姿であり、在家とは家に居ながら在家の戒律を守り修行する姿です。
我が国の仏教ではほとんどの僧侶が家や家族を持って生活していますので、厳密な意味での出家ではありませんが、職業として僧侶をしているという言い方が正解なのかもしれません。
また、職業僧侶が全て修行しているかと言えば、大変に真面目に日々の修行をしている人もいれば、毎日修行せずに、戒律も守らず遊んで暮らしているという人もいるのです。
私達は修行によって魂の向上を目指していくのですが、魂の向上という意味では出家であれ、在家であれ、同じ立場であるのです。
出家の方が時間的に、そして立場的にめぐまれた環境にあるものの、職業としての僧侶であったり、組織を維持していくための僧侶であるのなら、魂のレベルは在家の者と何ら変わりありません。
むしろ在家の者の方が純粋なる向上心を持っていることの方が多いものです。
毘沙門天修行法-在家の修行
在家の場合にはわざわざ出家しなくても、充分に今の生活のままで修業することが出来ます。生きていること自体が修行なのであり、仏道に根差した生活法があるのです。
毘沙門天の修行法は在家の人でも分かりやすい、夫婦の家族の、そして誰にでも出来る修行法なのです。
在家の修行-家庭
家庭では些細なことから大きな問題まで、毎日いろんな問題が起こっていますが、意思の疎通が出来ていないことが意外と多いものです。
日常的に大切なことは、会話があることです、そして笑い声があることです。会話はどんな会話でもいいんです、家族が同じ家の中に居て、一言も会話が無かったということではいけません。テレビを見ながらでも、番組の内容でも何でも構いません、声に出して何かを言うこと、そして話をすることが大切なことです。
分かり切っていることでもいいんです、しつこいと言われてもいいんです、分かっているから言わなくても良いという考えが会話を無くしてしまうのです。何でもいいから、声に出して言う、これが会話の始まり、何でも言える関係の始まりなのです。これも修行なのです。
そしてどんなことでもいいから、「良かった」と喜び、声に出して笑うことが大切です。これもまた修行、福の神は笑い声がある家にやってくるのです、会話の無い家には決してやってきません。
在家の修行-学校
学校ではいじめや嫌がらせなどが日常的にどこにでもあるものですが、近年はより陰湿的な方法になりつつあります。SNSを使った姿の見えない攻撃が増えているのも特徴です。
学校では何か一つでも良いですから、目標を持ちましょう。趣味でも、特技でも、好きな科目の勉強でもいいです。将来の自分に役に立つ、或いは何かやりたいことに繋がるかもしれません。熱中できるものが良いです。
友達は何でも話せる友達が1人居れば十分です、たくさんいる必要はありません。気を許せるといいますか、心を解放できる友は困った時に必ず助けてくれるはずです。相手が困っている時には必ず自分も助けて差し上げましょう。
SNSでの嫌がらせは気にした方の負けです、腹が立った方の負けです。貧乏神の仕業というものは、相手が嫌がれば嫌がるほどますますいじめたくなるのです。私などは最初からスマホなんて持ちません、依存所になって最終的にはコントロールされてしまうことが分かり切っているからです。いざとなったらスマホなんて捨ててしまえばいい、というぐらいの気持ちでいれば、心が楽になります。これも心の修行です。
在家の修行-職場
職場でのトラブルのほとんどは人間関係によります。嫌な上司、従わない部下、自分が上に上がるためなら相手を平気で蹴落とす人、上司に媚びをへつらう人、二重人格、パワハラ、セクハラなど、例をあげればきりがありません。
こんな状況では、真に信頼できる人なんて中々いないもので、誰にも相談することなく、朝の出社時に電車に飛び込む会社員のために毎日電車の人身事故の情報が入ります。
自分自身が会社のために一生を捧げるために生まれて来たのかと自問自答しても答えは決して出てきません、しかし今出来ることは、このような人間関係の中でさえも仏の心の人間が一人必要だという事です。その仏の心を持った人間があなたであれば良いのです。
仏の心とはただひたすらに相手に尽くすことで、見返りを何も期待しないことです。
会社というものは、辞めてしまっても生きてさえいれば何とかなるものです。自殺だけはいけません、魂を地獄に堕としてしまったら、もう未来永劫上がって来れないと思ってください。死んでも楽にはなりません。
会社の中では嫌な人ばかりでしょうが、嫌な人であれ、一つでもいいから相手の良い点を見出して褒めたたえること、そして仕事の結果を素直に喜ぶこと。「良かった」と「ありがとう」だけでも随分とあなたも、あなたの周りの人までも心が楽になるはずです。
毘沙門天の勤行
毘沙門天王様のお勤めは毎朝行います、毘沙門天王は力の神でありますので、礼拝の仕方としては合掌礼拝よりは、神道系の拍掌礼拝となり、黙してブツブツ唱えるよりは、大きな声で勢いよく唱えることです。
次第としては次のようになります
- 開経偈
- 仏説毘沙門天王功徳経
- 般若心経
- 毘沙門天王真言
- 吉祥天女真言
- 善膩師童子真言
- 諸夜叉真言
- 二十八使者真言
- 大金剛輪
詳しくは…毘沙門天王功徳経-訳と解説、勤行の仕方
毘沙門天の勤行は毎日続けるものですから、出来るだけ続けてみて、全部覚えて唱えることが出来るようになれば良いと思います。