目次
不殺生戒とは
仏教では僧侶が守るべき規律の最初にある戒で、不殺生とは生き物を殺さないことであり、反した場合には最も重い罪の波羅夷(はらい)罪になり、出家者は僧団を追放されます。また在家信者が守るべき最も重要な戒です。
戒律と殺生
仏教の戒の中でも出家、在家を問わずに不殺生戒が最初に掲げられているのは最も罪が重いからであり、出家者ならば即僧団を追放されるのは、許されない罪であり、絶対にしてはならないことだからです。
在家の人が守るべき五戒は
- 不殺生戒(ふせっしょうかい)…生き物を故意に殺してはならない
- 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)…他人のものを盗んではいけない
- 不邪婬戒(ふじゃいんかい)…不道徳な性行為を行ってはならない
- 不妄語戒(ふもうごかい)…嘘をついてはいけない
- 不飲酒戒(ふおんじゅかい)…酒類を飲んではならない
不殺生戒は生き物を殺してはいけない事ですが、仏教では生き物についてはこの世の全ての生き物を指していますので、蚊やゴキブリさえも殺してはいけないことなのです。
釈迦の時代
釈迦の時代の教団は忠実に戒を守っていて、雨の良く降る季節である雨季には虫がたくさん出てくるのでなるべく外出を避け、「安居会」(あんごえ)という室内での聞法会を主とした修行を続け、乾季になって説法に出かける時には虫を殺さないように摺り足で歩き、水を飲むのにも虫が入らないようにと布で濾してから飲むと言う徹底ぶりでした。
殺生は法律的にも大罪
殺生の中でも他人を殺すことは法律的に大罪であり、現世でも刑務所で刑罰を受けることになります。
多数の人を殺したり、反省なき無慈悲な殺し方であれば最悪死刑と言うことになります。
また他人の飼っている動物や可愛がっている動物を殺すことも犯罪になり、刑務所で刑罰を受けることになりますが、この場合には現世では器物損壊という罪になります。
この世で罪を犯して刑務所で刑罰を受けても仏教的な罪が消える訳ではありません。
自分が為した行為は時間を遡って修正することが出来ませんので、自ら受けるということになり、それが自業自得の大原則だからです。
但し出所した後に反省の日々を送り、功徳を積めば相対的に罪が軽くなることはあります。
殺生には苦しみが伴う
国を超えて何時の時代であっても殺生が罪悪であるのには理由があります。
生き物が殺される時には「苦しみ」があるからです。
殺人を犯した人を極刑として死刑にするのは、死ぬ時に最大の苦しみがあるからであり、人に対して最大の苦しみを与えた者は、自らその苦しみを味わうことで罪の償いをするのです。
その苦しみには肉体的な苦痛と精神的な苦痛の二通りがあります。
肉体的な苦痛
人は誰でも顔を水の中に漬けられたら息が出来なくて苦しくなって、息をするためにとっさに顔を上げようとします。
大きな事故で怪我をすれば、痛さのあまりもがき苦しみます。
苦しみの中でも最大の苦しみは死ぬことなのです。
食肉として屠殺される動物は最後の瞬間に悲しそうな眼をして涙を流すそうですが、私達はそれを見ることがありませんので、スーパーで買ったお肉を何も知らずにおいしいと言って食べることが出来ますが、涙を流して命乞いする動物を見たら食べることが出来ないかもしれません。
命乞いとは「助けて下さい」という叫びであり、生きとし生けるものは本能的に一日でも長く生きようとし、更には自分の命を次の世代に繋げようとする生き物としての本能なのです。
現代の経済主義はとても便利なもので、生き物を殺して処理する業者が居て、お金さえ出せば惨い苦しみの現場を見ることなく綺麗にパック詰めされた商品を買うことが出来るのです。
精神的な苦痛
死ぬ時の苦痛として、自分の命がこれで終わることが分かった瞬間、まだ生きたいと言う強い願望が絶たれる苦痛があります。
若い人であればもっといろんな経験をしてみたいでしょうし、家族が居れば奥さん、ご主人、子供と一緒に楽しい人生を送りたいと言う強い願望があるのです。
地球上の生きとし生けるものたちは、自分の命を最後まで全うし、次の命に繋げていくという使命を持ち、種を絶やさないようにしているのですが、次の世代に命をつなげることなく、或いは次の世代に命を繋げていても子育ての最中に死を迎えるようなことはとても大きな苦痛になるのです。
或いは死後の世界が分からないが故に、死後にどのような世界に行ってしまうかは、とても不安なことです。
三通りの殺生
殺生とは生き物を殺すことですが、その殺し方や心の持ち方によって、殺生にも三通りの殺生があり
- 自殺
- 他殺
- 随喜同業(ずいきどうごう)
があると説かれます。
自殺とは
仏教的に自殺とは自ら生き物を殺すことであり、自殺の中で最も重い罪が殺人で、人を殺すことです。
殺す対象としては人間、動物、虫などですが、仏教的には虫を殺すことも殺生になります。
血を吸っている蚊を叩くことやゴキブリに殺虫剤をかけること、足で蟻を踏み潰すことも殺生です。
但し私達には蚊に血を吸われると痒くて仕方ないから、ゴキブリは台所の食べ物を荒らして不潔だからなどの正当な理由があるからなのですが、それは強者の勝手な都合なのであって、弱者である虫にとってみれば生き物として生きる権利があるのにも関わらず無慈悲に殺されているだけなのかもしれません。
他殺とは
他殺とは人に頼んで生き物を殺してもらうことで、仏教的には自ら殺すことと同じ罪であるとされます。
肉が食べたいからとスーパーに買いに行けば自分で牛や豚を殺さずに済みますが、間接的であれ食肉業者に殺してもらった肉を食べているということになります。
自宅にハチの巣が出来て危険だからと業者に依頼してハチの巣を駆除するのも同じことです。
そんなことを言ったら肉も魚も食べられないし、肉屋も魚屋も仕事が無くなってしまうではないかと言われそうですし、食事をする時に「頂きます」と言うのは命を頂くと言うことではないかと言われそうです。
在家の人が生きていくのには様々な仕事が必要で、仏法に反するように仕事もあることは何処の国であっても何時の時代であっても変わらぬ事であり、釈迦の時代にも同様にあったのですが、敢えて不殺生を掲げるのは、仏教としての究極の目標であるからなのです。
私達の世界には敢えて殺生が罪であると言われなければ気が付かない人が多いからであり、仏は決して殺生などいたしません。
釈迦の時代には弱い国が強い国に滅ぼされ、戦争の多い時代でしたが、仏教の目指す世界は争いの無い平和な仏の世界であり、仏の国では殺生など存在しないのです。
我が国の僧侶は妻帯もしますし肉魚も食べる方が多いのですが、本来は結婚することなく菜食するべきなのです。
随喜同業とは
随喜同業とは殺生を見て楽しむことで、見て見ぬふりをすることも同じではないかと思います。
YouTubeでは「閲覧注意」として拉致された人が処刑される映像が流れたり、動物を殺害する様子が流れたりして爆発的な数で閲覧されていますが、私達の心の中には怖い物見たさの野次馬根性があって、「見るだけならいいだろう」と誰しも思うのですが、仏法では殺生を見て楽しむことは殺生と同じ罪になるそうです。
生かせいのち
「生かせいのち」は真言宗に於ける弘法大師空海の大切な教えです。
曼荼羅の思想
宇宙の原理を表現したとされる曼荼羅には金剛界と胎蔵界があり、共に大日如来の世界を表していますが、胎蔵界曼荼羅の一番外の部分である外金剛部には天神、鬼神、星神などが描かれていて、およそ神仏とは関係なさそうな鬼神も存在するのは、仏法を求める求道者として必要不可欠な存在だからであり、存在する理由があるのです。
仏法を求めて修行する者にとっては、たとえ人に危害を及ぼす罪悪を重ねた過去があったにしても、仏法を求める気持ちさえあれば仏の世界の構成員になれるのです。
人は誰でも知らない内に多くの罪を重ねる、罪深き存在ですが、少しでも仏の心を持ち、悪い行いは懺悔して罪滅ぼしの人生を送り、他のために尽くすようにすることが曼荼羅の思想です。
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殺生はなるべくしないこと
グルメが生き甲斐の人にとって肉魚を食べてはいけませんと禁止すれば生き甲斐が無くなってしまいます、魚釣りが趣味の人に釣りを禁止すれば楽しみが無くなってしまいます。
生き物の苦しみの上に成り立っていることを思い、感謝すること、そして他の生き物を慈しむことを実践してみて下さい。
虫を見たら何気なく手や足でつぶしていたような事をしていたら、無益な殺生は即刻やめましょう。
戒律を守るように心掛け、功徳を積むこと、これしか他に方法はありません。
仏教の根底にあるもの
仏教の根底にあるものとして「輪廻転生」の考えがあり、私達は地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天界の六道の中を生まれ変わり死に変わりしているというものです。
六道の中には動物や虫、餓鬼などの生き物が含まれていて、即ちこの世の中のあらゆる生き物や、果ては餓鬼、地獄にまで生まれ変わるとされ、私達は将来、動物や虫に生まれ変わるかもしれないですし、場合によっては愛する人や肉親が動物に生まれ変わっているかもしれないと説くのです。
生まれ変わりとは人が人に生まれ変わるだけの世界ではないのです。
もしそれが本当でしたら殺す事なんて到底できないはずです。
しかし私達は実際には誰が何に生まれ変わったのかも分かりませんし、死後の世界もどうなっているのかも分かりません。
そういった宇宙の真理を知るのは神通力を身に付けた如来のみ可能なのです。
動物や虫に生まれ変わるかの議論はさておいて、この世に生きる者達全てが宇宙の曼荼羅の構成要因であることを思えば、無駄な生き物は居ないはずですし、全ての生き物に生きている理由があるのです。
生きている理由があるのなら、宇宙の構成員として最後まで生きることが不殺生に繋がっているのです。
全ての生き物に対して慈しみの心を持って接することなのです。
はじめまして
徹昭さまのサイトを見て在家の修業を始めたものです。
元々四つ足の肉は食していなかったのですが、完全採食に切り替えました。
最近、疑問に思うのですが僧侶の方でも肉食(しかも四つ足)されている方が
いるようです。
・・・これって、修行を終えたら良いという事なのでしょうか?
我が国の僧侶は釈迦の仏教を純粋にそのまま継承しているのではなくて、土着の宗教や習慣を取り込んだ上で継承されているもので、戒律にしても厳しい戒律を守る必要がありませんし、肉食妻帯も許されています。本来戒律を守ることは自分のために行うもので、守ることによって清らかな気持ちで居ることが出来れば、他人のことをとやかく言う必要は無いのです。生き物を慈しむ気持ちがあれば当然菜食になりますし、いろんな生き物からも好かれるようになるのです。修行は一生かけての修行ですから、終わりはなく、何時までも続くもので御座います。合掌。
ありがとうございます。
勉強になりました。
私は仕事で虫や動物を殺生しなければいけない所で働いています。自分は好き好んで殺生したい訳ではありません。毎年、春が来る事が不安でたまりません。今は病気療養中で会社に行けなくなっております。殺生する事が他人の依頼であれ心が痛くてたまりません。私はこんな事をするために生まれてきたのでしょうか?生活もありますが、笑って心から笑って生きていきたいのに暗い毎日です。どうすれば私は救われいや、救われなくてもいいこの状態を抜け出すことができるのでしょうか?お忙しい中ではございますが、どうかお話聞かせて頂けますでょうか。宜しくお願い致します。
もし自分が苦しいと思うのであれば仕事を辞めて新しい道を歩めば今の苦しみからは解放されますが、また新しい苦しみも始まるはずで御座います。世の中には殺生することが苦しいと心と体の両方で感じる方がたくさん居られますので、そういう方には殺生に関わる仕事は明らかに不向きであります。このままではダメになってしまうでしょうから、ダメになってしまうよりは、一刻も早く離れるべきです。命あってのことですから。仕事としてどうしても離れられないのであれば、生まれ変わって幸せになって下さいと祈り、供養し続けるしか方法はありません。