日蓮聖人とは

日蓮聖人

日蓮聖人は鎌倉時代に日蓮宗を開いた日蓮宗の開祖です。

生涯

日蓮上人

貞応元年(1222年)に安房(現在の千葉県鴨川市)の漁村に漁師の子として生まれ、12歳で当時天台宗の安房国の清澄寺に登り修行と勉学に励み、16歳で出家得度しました。

仏教の宗派が多数存在し、教義や信仰の違いがあることに疑問を抱き、実際に確かめるべく比叡山延暦寺・園城寺・高野山などで十数年に亘って遊行して修行と勉学を重ねた結果、数ある経典の中でも「法華経」が最も優れた経典であることに気付き、「南無妙法蓮華経」の題目を広める決心をしました。

当時は既に末法の時代に入っているとされ、末法の時代には天変地異が頻発し、飢饉や疫病が蔓延し、悪がはびこり世の中は乱れるとされ、大変に恐れられていました。

鎌倉時代にすでに末法に入っているのなら、世の中の末法の様相が益々進んでいることからこれまでに興された宗教では救われなかったということであり、鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、元寇などの国難が起こるのはまさに末法世相の証であるとして、阿弥陀如来信仰の浄土宗禅宗密教などを邪道とし、「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」と激しく他宗を攻撃し、衆生が全く救われていないと説いたのです。

日蓮にとって末法の時代に衆生を救うことが出来るのはあらゆる経典の中で唯一「法華経」のみであると確信したのです。

特に念仏信仰を徹底的に非難したことから僧たちの反感を買い、政府に訴えられて安房から追放されて鎌倉に本拠地を置き、布教活動を開始しました。

鎌倉では「立正安国論」を著して時の最高権力者である北条時頼に提出し、大規模な飢饉や災害が続く原因は法然の専修念仏の邪道が世の中に広がっているためであり、為政者が悪法を止めて正しい法を実践しないと国が滅びてしまうと進言したが受け入れられることは無く、念仏勢力による草庵の襲撃に遭って下総国若宮(現在の千葉県市川市)に移り住むことになりました。

弘長元年(1261年)5月に再び鎌倉に戻るも鎌倉幕府によって捕らえられ伊豆国伊東に2年間の流罪を言い渡され、罪を解かれて安房に戻り再び「立正安国論」を幕府に提出するも今度は3年間の佐渡への流罪となり、罪を解かれて鎌倉に戻り幕府に三度目の法華経の帰依をすすめたが、受け入れられることはありませんでした。

その後身延山に落ち着き9年後に湯治に行く途中で信者宅で遷化し、61歳の生涯を閉じました。

法華経が全て

法華経

日蓮の出家が天台宗から始まったことから、信仰の基本は天台宗にありながら、数ある経典の中で最も重要な経典が「法華経」であることを痛感し、天災や飢饉などが続く今の末法の世の中を救うのは「南無妙法蓮華経」の題目だけであり、他の宗派を悪法と見做し、悪法を止めなければいけないと説くことから常に他宗派との摩擦を生み出すことになりました。

しかし日蓮の説く「南無妙法蓮華経」の題目は自分達が今生きているこの世を「仏の国」にすることであり、浄土教の念仏による死後の世界に存在する浄土ではないことが大きな特徴なのです。

皆が今生きているこの世が末法になって乱れ切っているのだから、今のこの世を仏の国にしないとあの世に繋がらない、しかも他宗派の教えは全て邪道だから今すぐ捨てないと国が滅んでしまうと言う強烈な教えですから、念仏を信仰している人達からすれば日蓮の教えは邪道なのです。

しかしながら今現実に困っている人達を救いたいという強い信念があるからこそ、幾多の法難に遭いながらも現代までその信仰の流れは続いているのです。

信仰は命がけ

僧兵

日蓮の強い信仰心と激しい布教は国を動かす為政者が法華経を信心し、他宗派の悪法を止めなければ衆生を救うことが出来ないばかりか国も亡ぶと時の幕府に進言するなどで流罪、更には他宗派からの襲撃などで命の危険にさらされたのです。

松葉ケ谷の法難

鎌倉幕府に提出した「立正安国論」は鎌倉幕府から完全に無視され、日蓮の念仏信仰に対する徹底的な非難は念仏勢力の激しい反発を招き、文応元年(1260年)8月27日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃されましたが、かろうじて逃げて命拾いしました。

小松原の法難

文栄元年(1264年)秋、日蓮は病気の母の看病のために故郷である安房国に帰郷し、知人を訪ねる途中で念仏信者の東条景信が率いる弓矢や太刀で武装した数百人の手勢による襲撃に遭い、弟子2人を失い、自らは額に刀傷を負いながらも一命をとりとめました。