不浄とは

屎糞所地獄

不浄とは心と体が汚れていることで、綺麗な状態ではない、物質としては排泄物や腐敗物の様子を示す仏教用語。

不浄の手

不浄の手

仏教発祥の国インドでは古来より食事の時には箸やフォークなどを使うことが無く、右手で掴んで食べるという習慣があります。

カレーやナンなどの料理を右手の指を上手に使ってすくったり丸めたりして口に運んで綺麗に食べるのです。

食事は右手で食べるものという決まりがあるのです。

しかし左手は不浄の手です。

トイレに行きますとトイレットペーパーなどの紙が備え付けられていることは無く、水が入っている手桶が置いてあるだけで、用を足した後には左手でお尻を拭いてその手を洗うための手桶なのです。

右手は「淨」の手で左手は「不浄」の手ですから、左手を使って食事を食べる人は居ませんし、右手でお尻を拭く人も居ません。

インドでは子供の頭を撫でる時に左手で撫でてはいけないという話も聞きました。

仏教で数珠を左手で持つのは不浄の手を数珠で浄めるためと言われています。

屎糞所地獄(しふんしょじごく)

屎糞所地獄

仏教では衆生が住むとされる場所は、須弥山の下部にある鉄囲山に囲まれた四つの州の一つである贍部洲(せんぶしゅう)ですが、その地下には地獄があって、重大な罪を犯した者が死後に輪廻転生する所であり、重大な罪を犯した者が行く世界とされます。

屎糞所地獄(しふんしょじごく)は、「心愚かで、不浄のものを浄と思い、浄いものを不浄と思い、仏法に出会っても三宝(仏法僧)を敬わない者が落ちる地獄」です。汚い、臭い環境でに喰われる苦しみが延々と続きます。

火で焼かれるよりは痛み苦しみは軽減されると思いますが、自分が「浄」だと思っていたものが実はこんなにも「不浄」だったということを嫌という程知らされる地獄の中で虫に食われ続けるのです。

不浄観

不浄観

美人だった人でも死んで腐れば不浄になる。

不浄観とは仏教に於いて身体の不浄さを悟るための修行で、自分や他人が死んで身体が腐敗して白骨化していく様子を観想し、綺麗だと思っている身体が実は不浄なものであり、執着心を断つことを目的とします。

不浄観は修行僧の欲望を断つという目的もあり、若くて綺麗な人であってもやがて歳を取って皺だらけになり、死んでしまえば打ち捨てられて腐敗が始まり虫が湧き、野犬や鳥に食いちぎられながらやがて骨になっていく、そのような「不浄」なものに夢中になって人生を終わらせてしまうことを延々と繰り返すよりは、もっと大切な「淨」に気付いて真の「淨」の世界つまり永遠に安楽の「浄土」を目指すための修行なのです。

私達は人間として短い人生の中で欲望を満たすことが幸せの姿でもあり、例えば若い美男美女のカップルがデートする時に不浄観を観じなさいと言われても自分達には関係の無いことであり、今が良ければそして自分達が良ければそれで良いというのが人としての実情です。

人生は一回きりだから精一杯楽しまないと損、という考えで生きている人にとっての不浄観は必要の無いものかもしれません。

しかしもっと長い目で見て、果てしなく生まれ変わり死に変わりする魂の旅の中で今此処に居るのはとても有難いことで、このチャンスを活かさないと二度とこういうチャンスは訪れないという自覚の持てる人なら、人は皆死んで腐っていく存在であるから執着してはいけないと観じることが出来るのです。