不浄観とは

不浄観とは仏教に於いて身体の不浄さを悟るための修行で、自分や他人が死んで身体が腐敗して白骨化していく様子を観想し、綺麗だと思っている身体が実は不浄なものであり、肉体に対する欲望や執着心を断つことを目的とします。
諸行無常

数々の出会いと別れを繰り返し、やっとのこととでスタイルも良くて美形で性格も良い自分の好みの相手に出会えたとしたら、幸せ一杯で、何時までもこの幸せが続いて欲しいと願うのは人として当然のことであり、この幸せは絶対に人に取られたくない、失いたくないと思うものです。
何時までもこの幸せが続いて欲しい、この幸せは絶対に人に取られたくない、失いたくないという心は全て執着であり、仏教の開祖である釈迦は全ての人が苦しむ原因となる執着を捨てなさいと説くのですが、目の前の幸せで一杯の人にとっては執着を捨てるなんて自分達には関係ないことかもしれません。
この世のものは全て永遠に続くものは一つもなく、美男美女もやがては皺だらけの老人になって死んでいき、長生き出来ればまだしも、病気や事故でどちらかが先に亡くなるようなこともよくあることで、後には悲しみだけが残るようなことに人は執着してしまうのです。
人として生きていく上での幸せというものは永遠には続かないものばかりなのです。
小欲知足の実践のために

物質文明と経済主義は私達の生活を豊かにし、便利で快適な生活の実現に貢献しているのですが、モノは増えれば増える程もっと欲しくなり、もっと欲しい、まだ欲しい、とエスカレートしていき、地球上の多くの物を手に入れた人達はそれでも満足することなく、やがては人の物まで欲しくなるのは、今の世界情勢を見ても明らかです。
私達はこの流れに対してもうそろそろブレーキを掛けないと世の中がどんどん悪くなっていきます。
小欲知足は少ない欲望で満足することであり、人としての欲望を否定するものではありませんが、人は欲望のままに生きていれば知らないうちに人を傷付けたり様々な争いの原因となり、自分さえ良ければそれで良いという自己満足の世界になってしまいますので、満足することを知ることはとても大切な事なのです。
小欲知足にはもう一つ「人に施す」という実践が含まれていて、自らは少ない欲望で満足し、少しでも余裕があれば困っている人に施す或いは正しい法を実践している僧や寺院に布施をすることで自らの功徳を積み、心を豊かにするのです。
不浄観が教えてくれること

私達は普通に生きていれば次々と欲望が湧いてきますし、湧いてくる欲望をコントロールすることはとても難しいことです。
それらの欲望の正体は実は「綺麗」「美しい」「素晴らしい」と言った外見から来るものが多く、何時までも続くものでは無くて現れては消えていくを繰り返す幻のようなものであり、そういったものを欲しがって心を惑わされることなく真実を見極めなさいと言う意味での不浄観の修行があるのです。
不浄観の修行は出家した僧が肉体に対する欲望を断つための修行で、自分や他人が死んで身体が腐敗して白骨化していく様子を観想し、誰もが綺麗だと思っている身体が実は不浄なものであるが故に、執着してはいけないと悟るのです。
釈迦の時代には修行僧の着る衣は糞掃衣(ふんぞうえ)と言って墓地に打ち捨てられていた死体がまとっていた布やゴミ捨て場に捨てられていた布を集めて縫い合わせたもので継ぎはぎだらけでしたが、出家者が墓地やゴミ捨て場に行く機会が結構あったようで、そこで観想の修行をすることにより人の世の無常さを悟ることが出来たのです。






