残すこと

人はこの世に生きてきた証を残すことでその業績を後世に語り継がれ、人々の記憶に残り続けることになります。
何を残す

私達が死んだ後には大量の生活用品や愛用品、思い出の品などが残されていて、そういった品々のほとんどが捨てられ、処分されることで無くなっていきます。
生前中に頂いた表彰状や感謝状などは大抵は捨てられてしまいますが、捨てるのが忍びないと思う方はお焚き上げ供養を利用して天に送ることで気持ち良く処分出来ます。
故人が製作した陶芸品や木工品・芸術品・絵画・書などは故人の思いのこもったものですから、形見分けで欲しい人に譲り、残ったものは処分するかお焚き上げ供養を利用します。
通帳などに残された預金や資産、財産は家族や親族などに相続或いは分与されて消費される、物に関しては故人が残した事実は忘れ去られます。
実際に遺品整理の現場で作業しますと、遺品整理とは残すことではなく、故人の残した物を綺麗に処分する作業であることに気付きます。
何が残るかと言えば、故人の遺骨が骨壺に納められてお墓に納骨することで残り続け、墓誌に刻まれた名前や没年月日、享年などの情報は何時までも残ります。
所有欲が少なくなり、お金はあっても欲しいものが無いであろう後期高齢者が最後に欲しくなるのが自らの死後にも遺骨と名前が残り、子孫の者が手を合わせてくれるであろうお墓であり、なるべく永く残るようにと人生最後のお買い物で一千万円は軽く超える庵治石などの高級石材を使用した立派なお墓なのです。
後世に残るような立派な業績を残した人であれば自ら残そうとしなくても、有志が集って銅像や石碑などを建ててその業績を後世にまで伝えようとするものですが、この世に普通に生きて特別な業績など無いような人達が最後に残せるものがお墓なのです。
残すことは欲望

この世で人として生きる楽しみは欲望を満たすことであり、食欲・性欲・睡眠欲と言われる三大欲求を日々追い求めながらも名誉・地位・財産などに執着し、得られた物を捨てたくない、或いはもっと欲しいということで、こういった欲望は長生きしたい、死にたくないという最終的な欲望に変わっていきます。
死ぬということは生きることが終わるという事であり、得たものを全て捨てるということですから、持ち物を全部捨てて何も無い状態で旅立つことなど恐怖以外の何物でもありません。
欲しいものを全て手に入れた古代中国の皇帝が最後に欲しがるものが不老不死の妙薬であり、歴代の工程が不老不死の妙薬を求めて世界中を探しまわり、膨大なる時間と労力を使っても得ることが出来なかったけれども、現代に於いても科学的・医学的・細胞学的に或いはあらゆる分野からの研究が続けられているのは、人としての根本的な欲望を満足させることが如何に重要な事であるのかということを証明しているのです。
不老不死は叶わなくても人は自らが死んだ後にも自分の事を覚えていて欲しい、自分の事を忘れないでいて欲しいという欲望があって、周囲の人達から自分の存在の記憶が消え去っていくことが怖くて仕方ないのです。
私達人間は最後の最後まで欲望や執着に振り回されて死んでいくのですが、今の時代どんなに立派なお墓を作ったところで後継者が居なくなり、墓じまいする事例は増える一方であり、墓誌に刻まれた名前は粉砕され、唯一生きてきた証としての遺骨も散骨或いは合葬墓の中で皆と一緒になるのですから、何時までも残すという努力が無駄な結果になってしまうということを自覚する必要があります。
仏教では

仏教の開祖である釈迦はこの世での欲望が満たしても満たしても次々と湧いてくるものであり、何時までも追い求めるだけで、真の意味で満足することが出来ないだけで人生が終わってしまうことが人間世界の姿であり、地獄・餓鬼・動物・阿修羅・人間・天界の六道の世界の中を廻り続けている限りは真の幸せになることが出来ないこと、そして六道から抜け出して仏の世界に行くことで安楽の境地が得られること、人間世界から抜け出すには一切の欲望を捨て去ることに気付いて悟りを得たのです。
欲望を捨てるという事はこの世に於いて何かを所有することではなく、持っているものは全て捨て去ることが僧としての第一歩だったのですから、釈迦在世当時の出家者は自分の持物を持つと言うことが許されず、唯一持てるものが僧として最低限必要な「三衣一鉢」だけだったのです。
しかしこれは出家者としての話であり、俗世間で生きている在家の人達は欲望の世界の中で生きていながらも出家者の生活を支えることで功徳を積み、出家者の説く法を聞くことで正しい生活を目指していたのです。
仏教では正しい法は何時までも残り続けるものですが、欲望に満ちた人間世界の中では正しい法が忘れ去られていき、釈迦入滅後1500年もしくは2000年過ぎたら釈迦の説いた教えを実践する者と悟りに入る者が居なくなる末法と言われる時期が来ますが、今の時代の混乱はまさに末法の時代なのです。
地球上の生き物として

地球が誕生してから46億年と言われる長い歴史の中で様々な生命が誕生しては死にいくことを繰り返してきましたが、地球上の生き物は全て自らの生命を終えたらその場に倒れ、或いは水に浮かび沈み流されて大地に還る、自然に還るという法則に従ってきました。
地球上の生き物であれば例外無しに自らの肉体や亡骸などの形ある物は他の生物や微生物などによって分解されて他の生き物の糧となり、最後には地球に還っていったのですから、生きてきた証を何も残さないという掟が忠実に守られてきたのです。
各々の生命体は種として生き残ることに専念し、個々の生命が残すものは何も無かったのです。
唯一残された種としての生命であってもやがては絶滅していくという運命にあるのですから、何も残さないという意味では共通して守られているのです。
残すということに関しては人間だけが唯一例外的な存在でありますが、大宇宙の法則からしてそれが許されることでないことは明らかです。
何も残さないと言う意味では人類が滅亡するということが何時かは必ず起こり得るのです。
それがどういう形で訪れるのか、何時であるのかは誰にも分かりません。
毘沙門天信仰と家族

毘沙門天信仰は父である毘沙門天と妃の吉祥天そして子の善膩師童子が揃って家族の幸せを説く信仰です。
人として幸せに生きることを説くのが毘沙門天信仰であり、生きていながら仏になるなど到底不可能であることを自覚している私達にとって、人として如何に幸せに生きていくことが出来るかという法を説いています。
仏になるためには人として幸せになることからスタートするのです。
たくさんのモノに囲まれて豊かそうに見えるけれど、得られても得られても満足出来ずにまだ欲しいと追い求める世の中で、少なくとも家族の中ではお互いに相手の事を思い、少しの幸せを皆で大いに喜ぶことが出来るのなら、それが幸せな家族の姿であり「小欲知足」の実践で幸せな家族になれるのです。
笑う門には福来る「笑門来福」笑いのある家には福の神がやって来る、笑うことにはお金が掛かりませんし、心と体の健康を増幅します。
家族の中で相手を思い、相手の幸せを求める心は、たとえ一人の人が居なくなったとしても残された家族の中で生き続け、無理して何か残そうとしなくても、その人の生き様は皆の心の中に生き続けるのです。






